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2017年 冨嶽両界峯入修行記(前編)

~始めに~

この修行記は、平成29年10月6日から9日にかけて行われた大和修験會による冨嶽両界峯入修行と銘打たれた、海抜0メートルから富士山の頂上に登り、そして山梨県の精進湖へと出る修行に参加した私が書く、あくまで個人的な感想文です。

大和修験會とは、宮崎県都城市に御座す龍禪院のご住職であられる宮元隆誠氏が会長を務められていて、修験道の修行として富士山へ登拝することを主とした、超宗派でありながら一般の方々にも広く門戸が開かれた団体です。

宮元会長と私は、同じく聖護院門跡の末寺として大先輩と後輩の関係になります。

今回、改めて宮元会長の謦咳に接しながら、私は一修験者の初心に立ち返って修行をさせていただきました。

富士山に興味がある方、修験道や山伏に興味がある方、また修行そのものに興味がある方、そして何か熱い本気を感じたい方、それぞれいろんな方々に読んでいただけたら幸いです。
以下大変な長文になりますが、等身大の自分で書いてみました。
(主語が僕で、デスマス口調じゃないのはカッコつけてる訳じゃありませんので、悪しからず。)

プロローグ

富士山での修行を終えて高知に帰ってきた次の日、僕が3歳の長男を連れて訪れたのは越知町にある横倉山だった。最も頂上に近い第三駐車場に車を停め、長男を肩車して標高800mの山頂を目指した。

そんな感じで、富士山から受けた熱は未だに収まらず、足の甲や腰の痛みなどの疲労を上回って尚、僕の心を突き動かしてくる。

僕は今、日焼け止めを塗っておかなかったせいで斑に剥がれ落ちてくる自分の額の皮を気にしながら、普段の日常の歩みを少しずつ取り戻している。

前日

静岡県に来ること自体が初めてだ。
もうかれこれ30年近く、新幹線は京都までしか乗ったことがない。
ましてや、日本一高い富士山など僕には偉大過ぎて、いや正直に言うと世間で当たり前の存在過ぎていて今まで逆に縁が無かった。

数年前から聖護院で宮元会長にお会いする度に富士山の素晴らしさは聞いていた。
そして同行の誘いを頂いていたのが今回僕が参加した大きな理由ではあるが、実際は馴染みある大峰奥駈修行とはまた違った山修行を一度は体験しておかなければという、自分の経験値を上げる為の姑息な動機で富士山修行の機会を窺っていたのだ。

しかも僕は長女の運動会を蹴ってこの修行に参加した。
修行は誰かに課されてさせられるものでは勿論ないが、自分勝手に何時でも入れるものでもない。
今回の冨嶽両界峯入修行の趣旨を理解し、快く見送ってくれた家族への感謝は決して忘れてはならないと、小さな車窓に一瞬で現れては消えていく何万軒もの家々を眺めながら、家庭という日常への未練を募らせていた。

車内アナウンスの声で我に返ると、こだまは新富士駅に着こうとしていた。

1日目

田子の浦の海岸、堤防の上、学校に向かう中学生が何人も自転車で通り過ぎる。

気温もそれほど寒く無く風もない朝だが、通り過ぎる自転車が巻き起こす微風を尻の素肌に感じている僕は、つまりふんどし一丁なのだ。

総勢14名だからこそ、縁もゆかりもない田子の浦の海岸でこうしてふんどし一丁でなんとか気合いが入ったフリをしていられるが、その実、内心は落ち着かない羞恥に乱れている。

漂流物の多い砂浜で、これから4日間歩く足裏を決して傷つけないようにと恐る恐る裸足になった。

波打ち際に一列、そして海を背にして、大きすぎてどれ程大きいのかよくわからない富士山を見やりながら、僕はこの修行の為に数か月前から地元の大滝山で練習し直してきた苦手な法螺貝を吹いた。

まずまずの音色に少しの安堵を感じながら、同時に遙か前方に霞む富士の山頂に対して、果たしてたどり着けるのだろうかという当たり前の不安も感じた。

いや、何としても歩き続けるのだと自らを奮い立たせ、ふんどし一丁の羞恥心にも慣れた頃、僕の発心は定まった。

そしてグッと丹田に力を込めて腹打ちで海水に飛び込んだ。
水は全然冷たく感じなかった。

水垢離の後、鈴懸と呼ばれる修験道特有の装束を急いで着用。予定より30分遅れのスタートでそこからすぐ近くの富士塚に向かう。

富士行者が道中の安全を願って行なう古からの習わしで、僕も富士塚にひとつ石を積んだ。

宮元会長から本日最初の法話があり、我々の生死のその実相は表裏一体であることが説かれる。

修行と言うと、だいたい思い起こされるのは非日常や出世間、ともすれば大怪我や体調を崩したり、最悪の場合死に至ることもあるのではないかと心配されたりもする。
でも冷静に考えてみると、玄関を一歩出たところで交通事故に遭うかもしれないし、快適なベッドの上でも脳の血管が突如破裂することもあるかもしれない。

また肉体的に過酷な労働環境で四肢を失う恐れもあれば、ストレス過多や激務の末に過労死という現実もあるわけで、何も修行者だけが命を懸けているわけでなく、皆それぞれいろんな事情を抱えながら、一見何気なく見える日常を必死で生きているのだ。

初日のこの日は昼過ぎまで富士宮市吉原商店街を回り、数十件に上る様々な商店で一軒一軒御祈願をさせていただいた。

大和修験會による毎年のこの御祈願は、地元ではすっかり定着しているようで、皆さんお仕事の手を止めて店先まで出てきて下さる。
数珠と錫杖の音声によって力強くも軽やかなリズムに乗った般若心経が響く中、宮元会長によるお加持を老若男女が受けて下さる。

昨年の大和修験會オリジナルのTシャツを着込んで、一心に手を掌せて御祈願を受けて下さる方々も大勢いて、今から富士の頂きを目指す我々の方がエネルギーを頂いてしまっているようで些か申し訳ない。

去年の赤ちゃんは一年経つともう歩けるようになっている…。

御祈願の途中で、かぐや姫伝説の眠る日吉浅間神社に参拝させていただいた。

この神社は正に文字通り社寺であり、現在の本殿は明治初期まで東泉院と呼ばれる密教寺院の本堂があった上に建てられている。

御祭神はかぐや姫であり、それも世間一般で知られている月へ帰っていく話ではなく、かぐや姫は富士山に登り富士山そのものの祭神となったという伝説が伝えられている

ちなみに、富士山頂に御座す浅間大社奥宮は本宮浅間大社の奥宮であり、本宮浅間大社の由緒では富士山の御祭神は木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤヒメノミコト)である。

さらに、修験道から見た富士山の本地仏は大日如来であり、この日の最後にお参りさせていただくのは興法寺大日堂という寺院である。そしてこの大日堂を挟んで今晩の宿となる村山ジャンボと聖護院ゆかりの村山浅間神社があり、まさに神仏習合の歴史を今に伝えている。

日吉浅間神社ではお祓いと御祈願の後、宮司様からご丁寧なお話を頂いた。富士山の歴史的多面性を改めて思い知らされて、気持ちもいよいよ高まってきた。

残り数件の御祈願を終えて少し遅めの昼食を頂くと、何だかどんより曇りになってきが、いよいよ富士山へ向けての峯入りの始まりである。

昨晩、同泊させていただいた宮元会長が「この一軒一軒の御祈願で、そのお店が本当に商売繁盛になるように心から真剣に祈る。それによって不動明王と一体となる準備が整う。」と仰っていた。

聖護院で毎年年明けに行なわれる寒中托鉢を思い出しながら、天気はもはや問題ではなく、問題は自分の心象を晴らす事だったのだと、先ほどの御祈願の重要性に気づいた。

そして我々はかぐや姫ミュージアムに束の間立ち寄り、その後天気予報どおりの土砂降りの雨の中、黙々と村山古道へと足を進めた。

この日アスファルトの上を歩き続けてかなりの時間が経つ。

この日まで、標高247mしかない大滝山ではあるが、そこを15kgのリュックを背負って何度も往復するなどのトレーニングはしてきたものの、固いアスファルトの上を薄い地下足袋で長時間歩き続けるという過酷さを僕は甘く見過ぎていた。

しかも、苦手な法螺貝の音色を少しでも安定させようと、体のぐらつきをなるべく抑えるために足の甲に不自然な力を加えすぎてしまい、顔には出さないもののかなりの痛みが患部に広がる。

そこへきて降ったばかりの冷たい雨が、幾筋もの小さな水流となって緩やかな上り坂の道の上を斜めに流れている。

既に地下足袋の中までぐっしょりと濡れているとはいえ、少しでもその小さな水流を避けて歩いてはみるが全ては避けられない。

夕暮れと共に気温も下がり、海抜も少しは上がっているのだろうか?、両足の甲の痛みに水流の冷たさが増々しみる。

辛い…。

痛みを庇うために、元来人より柔軟であるはずの足首の可動域は狭まってきているようで、このままでは明日からの山修行が危ぶまれるのは当然である。

僕の本格的な山修行はまだ通算10回を超えていないという浅い経験値ではあるが、まだ一度もリタイアの経験は無い。もしやこの初めての富士山を目前にして、いや文字通りその裾野に触れただけで、登拝は叶わないのか?

無言で歩きながらも心が不安に染まりそうになった時、宮元会長の「不動明王になりきる!」という言葉の意味を考えていた。

その言葉から、いきなり不動明王になれなくても、先ずはこの痛みになりきってみようという考えが閃いた。

痛みを有るべからざるものとしてではなく、痛みも僕の一部であり、この痛みと共に富士に登るのだとという発想に転換してみた。

すると、不思議な事に一瞬で痛みが楽になった。痛みは確かにそこに有り、確かに感じることができるのだが、それを認めることができた途端、痛みの感覚は問題では無くなった。

そう、僕は痛みが引き起こす自分の心象に捉われていたのだ。

また一つ、小さな空(くう)を勉強させてもらえた。

2日目

できる限りのストレッチとセルフマッサージをして床に着いたにも関わらず、足の甲の痛みは取れていない。

けれどもこの痛みの問題に関して、ある種の達観を得た僕には頂上まで行けるという確信があった。

あとはひたすらに歩くのみである。

何よりも有り難かったのは、鈴懸・山袴・地下足袋などの装束一式がカラッと乾いているということ!

実は昨夜の夕食の後、宮元会長自らがサポート役の奥様と共に参加者一同の装束一式を麓のコインランドリーで乾かしてくれていたのだ。

僕が経験した山修行でこんなことは本来在り得ないことである。会長自らが参加者一同の修行着を乾かす。しかも自らの睡眠時間を削ってまで…。

本来ならば宮元会長よりも下座であり、また初参加でありながらもスタッフ的な立ち位置である僕こそがコインランドリーに行くべきなのだが、
「よく英気を養っておくように。」との宮元会長のお言葉に甘えてしまい、僕は申し訳なく先に休ませていただいた。

一昨日の晩も、とっくに日付が変わっている深夜まで事務仕事の詰めをなさっていた会長は、昨晩も数時間だけの睡眠にも関わらず、全く疲れた顔をされておられずいたって穏やかに我々の士気を高める法話を出立の前にされている。

修験者の端くれの僕でさえここまで驚愕しているのだから、一般参加者の方々の目には宮元会長はもはやこの世のものではない超人に映っていることだろう。

ただ一つ、間違えて欲しくないのは、宮元会長は浅はかなホスピタリティで皆の修行着を乾かしたわけでは決してないという事だ。

装束一式がびしょびしょに濡れている状態で、この日の宿泊場所の雲海荘(富士宮ルート6合目にあたり海抜2500m)を目指すと、後半に軽度の低体温症を起すリスクが高まるし、また更に登頂を目指す3日目にまだ濡れていると、そのリスクはいよいよ高まってくる。

1日目の夜の時点では、山頂は昼間でも氷点下になり、また積雪と降雪も十分考えられるという天候状態だった。

それに今回、2日目の宿泊場所である雲海荘は、当初に予定していた宝永山荘が諸事情により宿泊不可能となり急遽対応して下さった山荘で、大和修験會 としては初めての利用になるらしく、衣服を乾燥させる設備の情報なども我々にとっては正確に把握できかねる状況であり、この1日目にずぶ濡れになった装束 一式を乾燥させるか否かという選択が、後々でかなり重要な分岐点になると予想されるのだった。

そこで宮元会長は、いざ困難な天候の中での登頂となっても、現時点でできる限りの事をして少しでもリスクを下げるための行動を取られていたのだ。
一日目を終えた参加者一同の体力を回復させ、装束一式を乾かして明日に備えるという行動を自らが一身に請け負って…。

「修行をさせていただく」という、私が繰り返し述べている感慨の理由は、この宮元会長の計らいや実践を間近で体験したことが大いに関係している。

昨夜までの予報とは打って変わって、天気もまるで霊瑞のように好転していった。

いや、確かに霊瑞は起きていたのだ!

昨日の夕方の時点では、この日の午後から晴れるという予報だった。(実は一昨日の時点ではこの日の夕方から晴れるとの予報だったので、既に好転してはいたのだが。)

それが2日目の朝になって、9時頃には晴れるという予報へと更に好転し、しかもなんと我々のスタート地点であった村山浅間神社付近では実際ほとんど雨は止んでいるという有難い状況だった。

村山古道を進んで一時間程、森林の中に入る前に、富士山の山頂部を最後に拝める場所があった。

その時の富士山は、少しずつ雲が晴れてもうしばらくすると全体が見えるようになる感じで、その姿はまるで龍の巣という巨大な積乱雲の向こうにある天空の城ラピュタを彷彿とさせた。

奇跡的に天気が好転していった2日日、ラピュタへの道が開けるように、富士への道が開けていったのである。

日本一高い山というあまりにも有名過ぎる富士山の事を、失礼ながら僕は本当に何も知らなかった。

3日目に吉田ルートを下る時、その形容はあながち間違いではなかったとも正直思ったのだが、僕にとっての正式な富士山との初対面は、やはり村山古道ということにしておきたい。

道の両脇に広がる原生林の苔たちは生き生きと輝いていて、その美しい風景の中には多様な生命が複雑に結びついていることが一目で感じられた。

大日如来は宇宙万物の理を表すと言われるが、なるほど富士山という生命体を胎蔵性の曼荼羅として捉えることで、その中心とも言える山頂部は正に中台八葉院。

古からの先人たちが、富士山とその周辺の自然の中に曼荼羅の世界観を投影したことが、2017年の現代に於いても、この村山古道を一度通っただけで体感され納得できたように思えた。

ところで、僕の足の甲の痛みはどうなったのかと言うと、これが昨日と同じく全く痛みに捉われずに歩けてしまったのだった。

科学的に解釈すると、堅いアスファルトのほぼ平らで単調な緩やかな登りから、自然の土と落ち葉と石を踏みながら歩く古道では、足への負担が全然違うのだ。

やはり森林地帯の森を歩く時は地下足袋に限る、特に僕はエアーが入っていない方が好きだ。

海抜500mの村山ジャンボから海抜2500mの雲海荘まで、2日目は実に2000mの標高差を上がる、数字で見るとハードな日だったが、実際ハードではありながらも、緑豊かな原生林から森林限界までじっくりと富士山の多様性を堪能できる贅沢な行程であったとも言える。

何はともあれ、6合目の雲海荘まで我々は1人の脱落者も無く辿り着き、少し量が多めの温かいカレーを夕食にご馳走になり、そう言えばまだお互いに自己紹介をしていないことに気づき、食後になってようやく初めての自己紹介をしたのだった。

この時の自己紹介は、普段良くある予定調和のものではなく、お互いの自己効力感が高まりあった中で成されるとても実りある自己紹介の時間だった。

お茶を何倍もお代わりしながら、我々の自己紹介は1時間以上も続いたのだった。

雲海荘からは富士宮市の夜景が一望でき、昨晩雲の上で中秋の満月を迎えた月が、もう本当は闇に溶けてしまっているはずの海から我々が歩いてきた道を、微かな光を照らして浮かび上がらせてくれるような気がした。

この日共に歩いた我々にしか見えない祈りの道を…。

2017年 冨嶽両界峯入修行記(後編)

3日目

修験者として僕の経験値の浅さは既に述べた通りだが、標高に関して今までの自己記録は、高知県と愛媛県を跨ぐ西日本の最高峰である石鎚山の1982mだ。

雲海荘の海抜は約2500m、しかもそこで一晩泊まる。

聖護院での大峰奥駈修行では、その行程の3日目に泊まる弥山(標高1895m)の夜がかなり寒いということを経験している。

しかし今回の富士山はそれよりも時期が1ヵ月遅く、しかも標高は600mも上である。

最も寒い山修行を経験するであろうことは参加を決めた時点で既に明らかなことだった。

そして事前準備の段階から、この寒さ対策に関しては常にあれこれと考えてきた。しかし何のことはない、現代の科学技術の恩恵に与れば複合編地素材や 吸湿発熱繊維を生地としたインナーや、摩訶不思議な防水透湿性素材で出来たゴアテックスなるものなど、コンパクトに携帯出来て便利なものがスマフォからポ チっと買えてしまうのだ。

僕は今回が人生初の雪山になるかもしれないという最悪の天候を考慮して、スマフォからポチっとではなく、わざわざ県外の専門店まで出向き、実際に商品に袖を通してまで防寒防水の備えには真面目に取り組んできた。

また、濡れた地下足袋で積雪の山頂部を歩くと、足の指の凍傷なども十分考えられるので、リュックの底には登山靴も忍ばせていた。

いったい大昔の行者さん達は、どんな装備で富士山での寒さや雨に対峙してきたのだろうか?

やはり、初夏から夏のお山開きの期間しか山に入らなかったのだろうか?

今で言う懐中電灯やヘッドライトは松明だったのだろうか?

いろいろと気になるところはあるのだが、とにかく先人達の山修行への気合いの入りようは、あれこれと女々しく着替えの算段に気を取られている僕とは比べ物にならない次元で凄まじかったに違いない…。

さて、そんな訳でいよいよ本格的な登山の様相を呈してきた3日目の朝、僕はみんなより1時間早く目が覚めて1階に降り、食堂の隅に置かせてもらっていた自分のリュックの中をガサゴソと模様替えしていた。

気温が気になって一度インナー姿のまま外に出てみた。まだ午前3時半だったがそこまで寒いとは思わなかったし空も晴れていた。

月は場所を変えながらも夜空に居座り、昨日の我々の達成感を今日の元気な出立に引き継いでくれようとしている…。

「…行ける!」

不動明王と一体になるという覚悟とは、この何処から湧いてくるのか自分でもわからない確信の先、つまりその元気とか勇気の源泉を見極めることなのだろうか?

とにかく良い感じである。

5時の出立勤行に合わせて、皆も僕もバタバタと出発準備に余念がない。

独り1時間前に起きていたこともあり、早めに衣体を整え少し早く外へ出ると、一般の登山客の方々と思しきヘッドライトの灯りが、雲海荘を挟んで登り下り両方の道にチラチラと揺れていた。

10月を過ぎると、我々が登る富士宮ルートはもとより吉田・須走・御殿場の3つのルートもとっくに閉鎖されている。
それにも関わらず、結構な人数がこの日も山頂を目指しているということは、今日はかなりの好天気が見込まれているということであって、やはり『富士への道は開かれた』ということがよりリアルに嬉しく感じられた。

昨日、西川先達より雲海荘から山頂へと登る間、法螺貝を吹くペースは充分間隔を空けた方が良いとのアドバイスを頂いていた。

その理由は、やはり高山病のリスクである。

ましてや2000mより上の世界は初体験の僕にとって、高山病の心配は常に頭の中にあった。

意外に思われるかもしれないが、実は法螺貝は険しい登りの時こそ吹くことが推奨されているし、また自分が予期せぬような良い音も実際そういう場所で出てしまうものなのだ。

そもそも法螺貝が上手に吹けるようになる事はイコール腹式呼吸と長息をマスターするということであって、一見するとつらい登りで法螺貝を吹くことは歩行の妨げに見えるが、実は歩行を健全な呼吸によってより歩きやすいものにしているのだ。

そういう利点は敢えて公にせず、辛い登りで懸命に法螺貝を吹いているという健気な姿を誰某となくにただ披露したいというやましい気持ちが無かったというと嘘になるが、とにかく僕には、「山頂まで法螺貝を吹き続ける。」という気負いがあった。

そして西川先達は、敢えて僕のその気負いを汲んで下さった上で、人それぞれの持って生まれた体質にも依存する高山病というリスクを踏まえ、先のアドバイスを下さったのだ。

それを受けて、恐る恐るではないが充分に間隔を空けて法螺貝を吹きながら登り、かれこれ1時間以上は経った。どうやら今のところ高山病の気配は無いようである。

雲海荘で一晩を過ごすならば、その心配は殆ど無いとのことは事前に方々で聞いてはいたが、今この時点で、自分の身体からエネルギーが溢れていることが何よりもその証拠であり、先行きは明るかった。

そして夜も明けようとしていた。

おそらく、御来光を拝んだのは8合目にかかる直前ではなかっただろうか。

標高3000mを超える地点で、遙か雲海の果てから少しずつ全てが同じ色に染められていく。

御来光も、それを拝む僕たちも、同じ色に染まっている。

それはまるで、仏性というものが全ての生命に宿るとした如来像の思想を正に具象化したような光景で、主観と客体を超えた唯一不二の場に僕たちは居た。

美しいと心から感じる瞬間、きっと心もその美しさに染められていているのだ。

山頂に近づくにれ、勾配は苛烈さを極めた。
もう太ももから足を上げ、掴める石が有れば少しでも手を添えてかき登っていくような様相である。

ところどころで出くわす、今はシャッターを降ろしている山小屋の猫の額ほどの平地を通る時だけが唯一の足休めになる。

とうとう9合目の万年雪山荘まできた。

余談ではあるが、万年雪山荘に据えられた石碑には標高3460mとあった。しかし奥野先達の腕時計の表示ではそれよりも100mちょっと低かった。いろんな事情があるのかも知れないが、実際にこの場に来ないと気づけない小さなトリビアを得たことが少し嬉しかった。

いずれにしてもこの時点で、山頂の奥宮までは残り高低差400mを切っている。普段247mの大滝山でも30分かからずに登っているので、このペースだとつまりあと1時間以内で登頂は叶うのだ。

あとはもう勢いだけだった。

立って休みたい気持ちもあったが、ひたすら長い呼吸を心がけ、同じペースで登り詰めた。

頭の中では何の感動的なBGMも無く、僕は淡々と頂上入り口の鳥居をくぐりぬけた。

少し乱れた自分の呼吸の音と、赤石と呼ばれる火山礫を踏む音だけが聞こえた。

普通の山登りで頂上に来れば、振り返って麓の街並みを眺めたり、周囲を見渡して○○山が綺麗に見えるよなどと、僕もはしゃいでしまっているに違いない。

ただ、我が目で見たここ富士の山頂は、異界だった。

植物は一つもなく、砕けた岩石が織りなす荒涼とした色合いに雲の上にある青い空が対照的で、かなりの紫外線が降り注いでいることが、自分の肌身を以て感じられる。

富士宮ルートの下山口に立って周囲を見渡すと、そこよりもまだ数十mは上にある剣ヶ峰に建てられた測候所や、天井の低そうな茶屋、本宮浅間神社の奥宮や鳥居、そして同行の仲間や一般の登山客…。
人間の営みを感じさせる物や、話しかければ互いに達成感を共有し合える他者がいればこそ、その山頂の風景は僕の中で辛うじて明るいものとして写っていはい たが、正直、僕の目から感じられた山頂は、「ここでは浮かれていられない。」という、あくまで崇敬の意味での異界だった。

天気も奇跡的に快晴で、動いているぶんには気温も全く寒くはなかった。しかしその快適さは、きっと台風の目のような一時のもので、我が身を通して感じた富士の山頂は荒涼としていて厳粛なものだった。

冨嶽両界峯入修行とは宮元会長が銘打たれたものである。
そしてその両界とは、この世とあの世の二つの世界。
田子の浦から山頂までが生の世界で、山頂から樹海を抜けての精進湖までが死の世界。山頂は、まさにその両界を分かつ、何とも形容しがたい異界なのだ。

僕は居心地の悪い不快さを感じたのでは決してなく、ただ、この山頂一帯は敬われるべき聖域であると真にそう思えた。

実は霊感というもの全くを持ち合わせていない僕ではあるが、この時ばかりは尋常ではない場の力というものを感じずにはいられなかった…。

天候にも恵まれたこともあって、ペースはかなり順調に進んでいた。

予定ではここで昼食を取り、そのあと賽の河原で追善供養をして下山の流れだったが、後詰めと呼ばれる最後尾の内田先達が到着して、さほど休む間もなく勤行の準備が始められた。

このしろ池と呼ばれる小さな池には氷が張っていて、一般の登山客の少年たちが珍しそうにその氷を割っていた。

そこから20mほどの場所で我々の勤行は厳かに始められようとしていた。

この場所まで宮元会長自ら背負って来られた沢山の水塔婆一枚一枚に故人様の戒名が記されている。

それを見つめながら、大和修験會による冨嶽両界峯入修行にはたくさんの方々の想いが託されているということを僕は改めて思い知った。

我々はここまで重い荷物を背負いながら自分の足で歩いてきたのだ…。いや、歩いてこれたのだ!

何故か?

周囲の方々に支えられ、且つそれぞれが健脚で自身の健康があったからだ!

そう、今僕は生きているのだ…!

そんな自問自答を繰り返しながら、僕は泣いた。

自然と泣けてきたのだった…。
それは今自分が生きているという感動や、生かされているという感謝を体でわかったような気がしたからでもあるし、また、何故あの人たちは死んでしまったのか?、というやり場のない悲しみを伴う不思議が、やるせなく、ただやるせなく溢れてきたからだった。

普段、人一倍理屈っぽく物事を捉えている僕が、この時ばかりは理屈が無かった。

今だからこそ言葉にできるが、頭部を破壊された仏像群に手を掌わし、法華経の自我偈を唱えながら自然と涙が出てきた時、感動と感謝と悲しみと不思議が複雑に入り混じった、本当に形容しつくせない感情があった。

そしてそれは僕だけに起きたことではないようだった。

今思えば、この時、僕らは如来の大悲の中に居たのかもしれない。

(※ 大悲とは、大きな悲しみというよりも、他者の悲しみに寄り添いさらにその苦しみから救おうとする大乗仏教において掲げられる広大な慈悲の心である。)

そこでは、己の作為からの慈悲ではなく、もはや語るべき主語が究極的に昇華された、ただ、大悲のみがあるのだ。

つまり、僕という主語があり、それに述語としての感情が付随しているのではなく、富士山の山頂部まさに大日如来の懐に抱かれ、僕はほんの一瞬だけ大悲そのものであったような気がする。

お鉢巡りと呼ばれる富士山の火口をぐるっと一周するコースがあるが、僕たちは富士宮ルート下山口からそのコースに入り、時計回りに剣ヶ峰に立ち寄 り、遙か左前方に八ヶ岳を確かめながら、すぐ右手下に迫る巨大な火口の淵を蟻のように周回しながら久須志神社に着いてやっと一息、昼食となった。

実は、剣ヶ峰を下ったあたりから僕の体調は少し怪しかった。
僅かながらのだるさを感じ始めていたのだ。もう正午を過ぎた頃なのにあまり食欲が湧いていない…やはり高山病の兆候か?

とにかく久須志神社はすぐそこなので、あまり気にしないように歩みを進めた。

雲海荘で頂いた弁当をなんとか体にかき込んで、20分程の休憩時間はあるだろうと勝手に見込んで、暫しの間ひとり昼寝をすることにした。

汗は乾いているが日光の真下にいてもやはり風は冷たい。リュックからレインウェアを取り出して上着は前後ろ反対に袖を通してベンチの端を借りた。

後で気づいたことなのだが、同行の皆は僕の昼寝姿を真似して同じように日向ぼっこをしていたようである。でも実は、この時の僕は切実に体調を少しでも良くするべく致し方なくの昼寝だったのだ。(笑)

高山病の時に昼寝は良くないらしいが、僕は完全に寝てはいなかったものの横になり、とにかく基礎代謝を抑えるだけで幾分かは楽になっていた。

そして出立の号令がかかるまでその状態であったので、独り慌てて衣体を整え、勤行に加わった。

さぁ、ここからは冨嶽両界に於いての死の世界。

「頂上まで辿り着いてホッと安心するんだけど、その先がまだまだ長い。」
との宮元会長のお言葉を思い返しながら気を引き締め、通常一般の登山ルートでは登りでした使われない吉田ルートを少しずつ下り始めた。

足の甲の痛みはもう取るに足らないものになっていたが、今度は腰の痛みに心を捉われていた。

僕はかれこれ4ヶ月以上前に右の腰上の筋肉を軽いぎっくり腰で痛めていた。

つぼの位置で言うと志室と呼ばれる箇所、スポーツ医学的には腰方形筋いわゆる体幹の筋肉の一部だ。

体幹というのはざっくり言うと身体のバランスを保つ上で必須の筋肉である。

その体幹をぎっくり腰で痛め、ここへきて痛みが再発しだした最大の理由は、急な下りで転落しないようかなりの負荷を患部にかけていたからだ。

しかも僕1人だけ自分の意思で杖を持ってきていない。

下りでよく話題にされる膝の方は問題無かったが、今回ばかりは杖の必要性が身に染みてわかった。

両足と斜面によって作り出される一歩一歩の振動が患部をブルブルと共振させる。

日頃の身体的な故障は、それが小さな故障に思えても、普段なかなか意識できない身体の内部に、実は密かに潜在しているものなのだ。

僕は現在33歳、10代の頃のようにはいかないことは確かにある…。

延々とつづら折りの下りが続く。

富士宮ルートに比べて山小屋が多い吉田ルートをかなり下まで下ってきた。

振り返ると、山頂はもうそこで誰かが手を振っていてもわからないほど、もとの近寄りがたい気高さを取り戻している。

例年はなだらかなブル道を、傾斜を稼ぐ分距離をかけてひたすらザクザクと進み下る道らしいが、今年は正規の吉田ルートをそのまま下ってきた。

いつのまにか辺りには木々が広がり、太平洋側の富士宮ルートでは目にできなかった紅葉が、内陸側の吉田ルートでは既に始まっていた。

この地点でもまだ標高は2400mはある。

途中、日蓮上人が法華経を安置したとされる岩屋でも勤行をさせていただいた後、少し歩みを進めると、微かに焚火の香りが漂ってきた。

時刻は午後6時に迫っている、念のためにヘッドライトで足元を照らしながら、赤よりも黄色が目立つ紅葉の中を抜けると、本日3日目の宿である星観荘に到着した。

当初は昨日の2000mの登りに比べて、今日の1400m程の下りは大したことはないだろうと甘く見ていたが、いやいや、実に長い下りだった。

星観荘に祀られている不動明王は宮元会長が開眼(魂を入れる作法のこと)をなさったそうで、その御縁もありオーナーからの計らいで夕食は豪華だった。

ボリュームのあるお弁当に、野菜中心のおでんがコンロの上に据えられていた。

温かい食事にありつけることが本当に有り難く、そして何よりも同行一同が元気にこの場にいられることが嬉しかった。

昨夜に引き続き宮元会長から法話を頂いた。

「この3日間を振り返っての精進、努力、忍耐、心掛け、それらはこの3日間だけに留まるものではなくて、いつでもそう在ろうとしなければならない!」

そのお言葉を聞くのと同時に、それぞれ皆の心には更なる発心が生まれていた。

それは、改めて問うまでのことではなかった。

最終日

星観荘を出立してすぐに御来光となり、僕らは小御嶽神社に参拝した。

この日も天気は快晴である。

御来光の朝日が山肌にかかると、昨日は薄暗くて細部まで見えていなかったこの地の紅葉の美しさに心を奪われた。

どおりで一般の参拝客が多いはずである。

小御嶽神社には大きな駐車場も完備されていて、もうここでは紅葉のレジャーシーズンが始まっていたのだ。

僕はふと、小御嶽という名前が気になって、稀少な刀鍛冶であられる内田先達に質問を投げかけてみた。

僕の浅はかな仮説である富士山を御嶽としての小御嶽ではないのか?、という問いに対して、内田先達からは意外な回答が返ってきた。

「実は、小御嶽神社は小御岳火山という火山の山頂の上に建てられています。富士山に比べて小さく見えますが、火山としては10万年以前のもので、その後古富士火山ができ、さらにその上に被さるように今の新富士火山が出来ています。」

「その地学的歴史を裏付けるように、小御嶽神社の御祭神は磐長姫命(イワナガヒメ)といい、富士山の御祭神である木花咲耶姫のお姉さんになっているんです。」

何というミステリーだろうか!

日本神話を構築した古の先人たちは、富士山に比べればとても小さいこの小御岳を富士山出現より以前のものと、何らかの根拠を得て知り得ていたかもしれないのだ。

こういった所にも富士山の奥深さを感じずにはおれず、ますます自分の中で知識としての富士山が更新されていくのだった。

そして道はかの有名な青木ヶ原樹海を通り、精進湖へと続く。

樹海という言葉のもつイメージは、現在ではマスメディアの影響のせいかあまりよくないような気がする。

樹海=自殺の名所、という先入観を抱かれることが多いのではないだろうか。

しかし、いざ樹海を歩いてみてるとそんな先入観はすぐに払拭された。(僕がその雰囲気に感動した場所は樹海でもかなり標高が上のほうではあるが)

富士山麓の原生林。地元高知の山々では聞いたことの無い野鳥の鳴き声も聞こえる。地面は、落ち葉が堆積して適度に踏み固められた柔らかな歩き心地で、心も体も癒されていく。

小御嶽神社の云われを教えて下さった内田先達が顔をほころばせながら、「この道は険しい道を歩いてきた人へのご褒美のようで、自分も大好きなんです。」と話されていたのがとてもよくわかる。

けれども、道が緩やかな下りで歩きやすくなった分、ペースは少し上がり、休憩をとる感覚も空いてきた。

大和修験會の山修行での特色は、『何も物を持たない手は常に内拳にして腰に当てる』つまり、手をブラブラさせて歩かないということである。

常に精神を集中した状態で山を歩く、その姿勢が腰にあてがう内拳に表れている。

歩きやすく心地の良い道でも、ピクニックに来たのではないのだから、けっして私語は始まらない。

また、逆に言うと、そういう緊張感を持続させる為の内拳であり、またその姿勢は人生に本気で向き合う宮元会長の基本姿勢であり、大和修験會のモットーなのだ。

ゴールを間近に控えながらも、微かな気の緩みを感じていた僕は、今一度そんなことを考えながら自分の基本姿勢を正そうとしていた。

いよいよ、精進湖まであと3km程に迫ったところで、最後の新客行(初参加の人が修めるべき修行)が待ち構えていた。

しかし残念ながら、この新客行についての一切はここで語ることが出来ない。

何があって、何をして、何を体験したのか…、それは実際にこの大和修験會の冨嶽両界峯入修行を最後まで歩き通して、己の心身で対面していただきたいと切に願うばかりである…。

精進湖に近づくにつれて、気温が上がってきたことに気づいた。

苦行から解放されるといった喜びを待ち望む胸の高鳴りなど微塵もなく、僕はただ淡々と最後まで確実に歩みを進めるだけだった。

法螺貝の音は既にヨレヨレになってきてはいるが、それでもさっき吹いた音よりも綺麗な音を出そうと懸命に吹く。

そもそも修行は苦行ではない。

自ら発心を起してこれに参加し、自らの肉体を通して何かを修しているのだ。

体裁を作ろう言葉で言えば、それは六波羅蜜を修することである。しかし、六波羅蜜の再解釈など言葉を操れば幾らでも自己啓発的な文言を並べられる。

修行を語ることと、いざ自分が修行に入ることには大きな隔たりがある。

その隔たりを作る物こそが自我であり、自我とは我欲であり、また一切の苦楽を感じるところの体感である。

その己の体感を通して、苦痛や美や感動を感じて、がむしゃらに淡々と何かを修していくのだ。

思うにそれは、詰まるところ人生そのものではないだろうか?

繰り返しになるが、修行とは人生の縮図であるというのが、今回この富士山での修行を通して僕が僕なりに気づいたことなのだ。

密かに僕が思い描いていた精進湖のゴールは、美しく澄んだ湖の上に自分達が下ってきた富士山が映し出され、正にお涙頂戴的な絵になる場所であった。

しかし、いざ辿り着いたゴールは、富士五湖の中で最も小さな精進湖のしかも端っこの淀み、遊覧カヌーが積み上げられた何の変哲もないただの河原だった。

田子の浦の海岸、堤防の上、学校に向かう中学生が何人も自転車で通り過ぎる。

気温もそれほど寒く無く風もない朝だが、通り過ぎる自転車が巻き起こす微風を尻の素肌に感じている僕は、つまりふんどし一丁なのだ。

総勢14名だからこそ、縁もゆかりもない田子の浦の海岸でこうしてふんどし一丁でなんとか気合いが入ったフリをしていられるが、その実、内心は落ち着かない羞恥に乱れている。

漂流物の多い砂浜で、これから4日間歩く足裏を決して傷つけないようにと恐る恐る裸足になった。

波打ち際に一列、そして海を背にして、大きすぎてどれ程大きいのかよくわからない富士山を見やりながら、僕はこの修行の為に数か月前から地元の大滝山で練習し直してきた苦手な法螺貝を吹いた。

まずまずの音色に少しの安堵を感じながら、同時に遙か前方に霞む富士の山頂に対して、果たしてたどり着けるのだろうかという当たり前の不安も感じた。

いや、何としても歩き続けるのだと自らを奮い立たせ、ふんどし一丁の羞恥心にも慣れた頃、僕の発心は定まった。

そしてグッと丹田に力を込めて腹打ちで海水に飛び込んだ。
水は全然冷たく感じなかった。

水垢離の後、鈴懸と呼ばれる修験道特有の装束を急いで着用。予定より30分遅れのスタートでそこからすぐ近くの富士塚に向かう。

富士行者が道中の安全を願って行なう古からの習わしで、僕も富士塚にひとつ石を積んだ。

宮元会長から本日最初の法話があり、我々の生死のその実相は表裏一体であることが説かれる。

修行と言うと、だいたい思い起こされるのは非日常や出世間、ともすれば大怪我や体調を崩したり、最悪の場合死に至ることもあるのではないかと心配されたりもする。
でも冷静に考えてみると、玄関を一歩出たところで交通事故に遭うかもしれないし、快適なベッドの上でも脳の血管が突如破裂することもあるかもしれない。

また肉体的に過酷な労働環境で四肢を失う恐れもあれば、ストレス過多や激務の末に過労死という現実もあるわけで、何も修行者だけが命を懸けているわけでなく、皆それぞれいろんな事情を抱えながら、一見何気なく見える日常を必死で生きているのだ。

初日のこの日は昼過ぎまで富士宮市吉原商店街を回り、数十件に上る様々な商店で一軒一軒御祈願をさせていただいた。

大和修験會による毎年のこの御祈願は、地元ではすっかり定着しているようで、皆さんお仕事の手を止めて店先まで出てきて下さる。
数珠と錫杖の音声によって力強くも軽やかなリズムに乗った般若心経が響く中、宮元会長によるお加持を老若男女が受けて下さる。

昨年の大和修験會オリジナルのTシャツを着込んで、一心に手を掌せて御祈願を受けて下さる方々も大勢いて、今から富士の頂きを目指す我々の方がエネルギーを頂いてしまっているようで些か申し訳ない。

去年の赤ちゃんは一年経つともう歩けるようになっている…。

御祈願の途中で、かぐや姫伝説の眠る日吉浅間神社に参拝させていただいた。

この神社は正に文字通り社寺であり、現在の本殿は明治初期まで東泉院と呼ばれる密教寺院の本堂があった上に建てられている。

御祭神はかぐや姫であり、それも世間一般で知られている月へ帰っていく話ではなく、かぐや姫は富士山に登り富士山そのものの祭神となったという伝説が伝えられている

ちなみに、富士山頂に御座す浅間大社奥宮は本宮浅間大社の奥宮であり、本宮浅間大社の由緒では富士山の御祭神は木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤヒメノミコト)である。

さらに、修験道から見た富士山の本地仏は大日如来であり、この日の最後にお参りさせていただくのは興法寺大日堂という寺院である。そしてこの大日堂を挟んで今晩の宿となる村山ジャンボと聖護院ゆかりの村山浅間神社があり、まさに神仏習合の歴史を今に伝えている。

日吉浅間神社ではお祓いと御祈願の後、宮司様からご丁寧なお話を頂いた。富士山の歴史的多面性を改めて思い知らされて、気持ちもいよいよ高まってきた。

残り数件の御祈願を終えて少し遅めの昼食を頂くと、何だかどんより曇りになってきが、いよいよ富士山へ向けての峯入りの始まりである。

昨晩、同泊させていただいた宮元会長が「この一軒一軒の御祈願で、そのお店が本当に商売繁盛になるように心から真剣に祈る。それによって不動明王と一体となる準備が整う。」と仰っていた。

聖護院で毎年年明けに行なわれる寒中托鉢を思い出しながら、天気はもはや問題ではなく、問題は自分の心象を晴らす事だったのだと、先ほどの御祈願の重要性に気づいた。

そして我々はかぐや姫ミュージアムに束の間立ち寄り、その後天気予報どおりの土砂降りの雨の中、黙々と村山古道へと足を進めた。

この日アスファルトの上を歩き続けてかなりの時間が経つ。

この日まで、標高247mしかない大滝山ではあるが、そこを15kgのリュックを背負って何度も往復するなどのトレーニングはしてきたものの、固いアスファルトの上を薄い地下足袋で長時間歩き続けるという過酷さを僕は甘く見過ぎていた。

しかも、苦手な法螺貝の音色を少しでも安定させようと、体のぐらつきをなるべく抑えるために足の甲に不自然な力を加えすぎてしまい、顔には出さないもののかなりの痛みが患部に広がる。

そこへきて降ったばかりの冷たい雨が、幾筋もの小さな水流となって緩やかな上り坂の道の上を斜めに流れている。

既に地下足袋の中までぐっしょりと濡れているとはいえ、少しでもその小さな水流を避けて歩いてはみるが全ては避けられない。

夕暮れと共に気温も下がり、海抜も少しは上がっているのだろうか?、両足の甲の痛みに水流の冷たさが増々しみる。

辛い…。

痛みを庇うために、元来人より柔軟であるはずの足首の可動域は狭まってきているようで、このままでは明日からの山修行が危ぶまれるのは当然である。

僕の本格的な山修行はまだ通算10回を超えていないという浅い経験値ではあるが、まだ一度もリタイアの経験は無い。もしやこの初めての富士山を目前にして、いや文字通りその裾野に触れただけで、登拝は叶わないのか?

無言で歩きながらも心が不安に染まりそうになった時、宮元会長の「不動明王になりきる!」という言葉の意味を考えていた。

その言葉から、いきなり不動明王になれなくても、先ずはこの痛みになりきってみようという考えが閃いた。

痛みを有るべからざるものとしてではなく、痛みも僕の一部であり、この痛みと共に富士に登るのだとという発想に転換してみた。

すると、不思議な事に一瞬で痛みが楽になった。痛みは確かにそこに有り、確かに感じることができるのだが、それを認めることができた途端、痛みの感覚は問題では無くなった。

そう、僕は痛みが引き起こす自分の心象に捉われていたのだ。

また一つ、小さな空(くう)を勉強させてもらえた。

2日目

できる限りのストレッチとセルフマッサージをして床に着いたにも関わらず、足の甲の痛みは取れていない。

けれどもこの痛みの問題に関して、ある種の達観を得た僕には頂上まで行けるという確信があった。

あとはひたすらに歩くのみである。

何よりも有り難かったのは、鈴懸・山袴・地下足袋などの装束一式がカラッと乾いているということ!

実は昨夜の夕食の後、宮元会長自らがサポート役の奥様と共に参加者一同の装束一式を麓のコインランドリーで乾かしてくれていたのだ。

僕が経験した山修行でこんなことは本来在り得ないことである。会長自らが参加者一同の修行着を乾かす。しかも自らの睡眠時間を削ってまで…。

本来ならば宮元会長よりも下座であり、また初参加でありながらもスタッフ的な立ち位置である僕こそがコインランドリーに行くべきなのだが、
「よく英気を養っておくように。」との宮元会長のお言葉に甘えてしまい、僕は申し訳なく先に休ませていただいた。

一昨日の晩も、とっくに日付が変わっている深夜まで事務仕事の詰めをなさっていた会長は、昨晩も数時間だけの睡眠にも関わらず、全く疲れた顔をされておられずいたって穏やかに我々の士気を高める法話を出立の前にされている。

修験者の端くれの僕でさえここまで驚愕しているのだから、一般参加者の方々の目には宮元会長はもはやこの世のものではない超人に映っていることだろう。

ただ一つ、間違えて欲しくないのは、宮元会長は浅はかなホスピタリティで皆の修行着を乾かしたわけでは決してないという事だ。

装束一式がびしょびしょに濡れている状態で、この日の宿泊場所の雲海荘(富士宮ルート6合目にあたり海抜2500m)を目指すと、後半に軽度の低体温症を起すリスクが高まるし、また更に登頂を目指す3日目にまだ濡れていると、そのリスクはいよいよ高まってくる。

1日目の夜の時点では、山頂は昼間でも氷点下になり、また積雪と降雪も十分考えられるという天候状態だった。

それに今回、2日目の宿泊場所である雲海荘は、当初に予定していた宝永山荘が諸事情により宿泊不可能となり急遽対応して下さった山荘で、大和修験會 としては初めての利用になるらしく、衣服を乾燥させる設備の情報なども我々にとっては正確に把握できかねる状況であり、この1日目にずぶ濡れになった装束 一式を乾燥させるか否かという選択が、後々でかなり重要な分岐点になると予想されるのだった。

そこで宮元会長は、いざ困難な天候の中での登頂となっても、現時点でできる限りの事をして少しでもリスクを下げるための行動を取られていたのだ。
一日目を終えた参加者一同の体力を回復させ、装束一式を乾かして明日に備えるという行動を自らが一身に請け負って…。

「修行をさせていただく」という、私が繰り返し述べている感慨の理由は、この宮元会長の計らいや実践を間近で体験したことが大いに関係している。

昨夜までの予報とは打って変わって、天気もまるで霊瑞のように好転していった。

いや、確かに霊瑞は起きていたのだ!

昨日の夕方の時点では、この日の午後から晴れるという予報だった。(実は一昨日の時点ではこの日の夕方から晴れるとの予報だったので、既に好転してはいたのだが。)

それが2日目の朝になって、9時頃には晴れるという予報へと更に好転し、しかもなんと我々のスタート地点であった村山浅間神社付近では実際ほとんど雨は止んでいるという有難い状況だった。

村山古道を進んで一時間程、森林の中に入る前に、富士山の山頂部を最後に拝める場所があった。

その時の富士山は、少しずつ雲が晴れてもうしばらくすると全体が見えるようになる感じで、その姿はまるで龍の巣という巨大な積乱雲の向こうにある天空の城ラピュタを彷彿とさせた。

奇跡的に天気が好転していった2日日、ラピュタへの道が開けるように、富士への道が開けていったのである。

日本一高い山というあまりにも有名過ぎる富士山の事を、失礼ながら僕は本当に何も知らなかった。

3日目に吉田ルートを下る時、その形容はあながち間違いではなかったとも正直思ったのだが、僕にとっての正式な富士山との初対面は、やはり村山古道ということにしておきたい。

道の両脇に広がる原生林の苔たちは生き生きと輝いていて、その美しい風景の中には多様な生命が複雑に結びついていることが一目で感じられた。

大日如来は宇宙万物の理を表すと言われるが、なるほど富士山という生命体を胎蔵性の曼荼羅として捉えることで、その中心とも言える山頂部は正に中台八葉院。

古からの先人たちが、富士山とその周辺の自然の中に曼荼羅の世界観を投影したことが、2017年の現代に於いても、この村山古道を一度通っただけで体感され納得できたように思えた。

ところで、僕の足の甲の痛みはどうなったのかと言うと、これが昨日と同じく全く痛みに捉われずに歩けてしまったのだった。

科学的に解釈すると、堅いアスファルトのほぼ平らで単調な緩やかな登りから、自然の土と落ち葉と石を踏みながら歩く古道では、足への負担が全然違うのだ。

やはり森林地帯の森を歩く時は地下足袋に限る、特に僕はエアーが入っていない方が好きだ。

海抜500mの村山ジャンボから海抜2500mの雲海荘まで、2日目は実に2000mの標高差を上がる、数字で見るとハードな日だったが、実際ハードではありながらも、緑豊かな原生林から森林限界までじっくりと富士山の多様性を堪能できる贅沢な行程であったとも言える。

何はともあれ、6合目の雲海荘まで我々は1人の脱落者も無く辿り着き、少し量が多めの温かいカレーを夕食にご馳走になり、そう言えばまだお互いに自己紹介をしていないことに気づき、食後になってようやく初めての自己紹介をしたのだった。

この時の自己紹介は、普段良くある予定調和のものではなく、お互いの自己効力感が高まりあった中で成されるとても実りある自己紹介の時間だった。

お茶を何倍もお代わりしながら、我々の自己紹介は1時間以上も続いたのだった。

雲海荘からは富士宮市の夜景が一望でき、昨晩雲の上で中秋の満月を迎えた月が、もう本当は闇に溶けてしまっているはずの海から我々が歩いてきた道を、微かな光を照らして浮かび上がらせてくれるような気がした。

この日共に歩いた我々にしか見えない祈りの道を…。

2017年 冨嶽両界峯入修行記(後編)

3日目

修験者として僕の経験値の浅さは既に述べた通りだが、標高に関して今までの自己記録は、高知県と愛媛県を跨ぐ西日本の最高峰である石鎚山の1982mだ。

雲海荘の海抜は約2500m、しかもそこで一晩泊まる。

聖護院での大峰奥駈修行では、その行程の3日目に泊まる弥山(標高1895m)の夜がかなり寒いということを経験している。

しかし今回の富士山はそれよりも時期が1ヵ月遅く、しかも標高は600mも上である。

最も寒い山修行を経験するであろうことは参加を決めた時点で既に明らかなことだった。

そして事前準備の段階から、この寒さ対策に関しては常にあれこれと考えてきた。しかし何のことはない、現代の科学技術の恩恵に与れば複合編地素材や 吸湿発熱繊維を生地としたインナーや、摩訶不思議な防水透湿性素材で出来たゴアテックスなるものなど、コンパクトに携帯出来て便利なものがスマフォからポ チっと買えてしまうのだ。

僕は今回が人生初の雪山になるかもしれないという最悪の天候を考慮して、スマフォからポチっとではなく、わざわざ県外の専門店まで出向き、実際に商品に袖を通してまで防寒防水の備えには真面目に取り組んできた。

また、濡れた地下足袋で積雪の山頂部を歩くと、足の指の凍傷なども十分考えられるので、リュックの底には登山靴も忍ばせていた。

いったい大昔の行者さん達は、どんな装備で富士山での寒さや雨に対峙してきたのだろうか?

やはり、初夏から夏のお山開きの期間しか山に入らなかったのだろうか?

今で言う懐中電灯やヘッドライトは松明だったのだろうか?

いろいろと気になるところはあるのだが、とにかく先人達の山修行への気合いの入りようは、あれこれと女々しく着替えの算段に気を取られている僕とは比べ物にならない次元で凄まじかったに違いない…。

さて、そんな訳でいよいよ本格的な登山の様相を呈してきた3日目の朝、僕はみんなより1時間早く目が覚めて1階に降り、食堂の隅に置かせてもらっていた自分のリュックの中をガサゴソと模様替えしていた。

気温が気になって一度インナー姿のまま外に出てみた。まだ午前3時半だったがそこまで寒いとは思わなかったし空も晴れていた。

月は場所を変えながらも夜空に居座り、昨日の我々の達成感を今日の元気な出立に引き継いでくれようとしている…。

「…行ける!」

不動明王と一体になるという覚悟とは、この何処から湧いてくるのか自分でもわからない確信の先、つまりその元気とか勇気の源泉を見極めることなのだろうか?

とにかく良い感じである。

5時の出立勤行に合わせて、皆も僕もバタバタと出発準備に余念がない。

独り1時間前に起きていたこともあり、早めに衣体を整え少し早く外へ出ると、一般の登山客の方々と思しきヘッドライトの灯りが、雲海荘を挟んで登り下り両方の道にチラチラと揺れていた。

10月を過ぎると、我々が登る富士宮ルートはもとより吉田・須走・御殿場の3つのルートもとっくに閉鎖されている。
それにも関わらず、結構な人数がこの日も山頂を目指しているということは、今日はかなりの好天気が見込まれているということであって、やはり『富士への道は開かれた』ということがよりリアルに嬉しく感じられた。

昨日、西川先達より雲海荘から山頂へと登る間、法螺貝を吹くペースは充分間隔を空けた方が良いとのアドバイスを頂いていた。

その理由は、やはり高山病のリスクである。

ましてや2000mより上の世界は初体験の僕にとって、高山病の心配は常に頭の中にあった。

意外に思われるかもしれないが、実は法螺貝は険しい登りの時こそ吹くことが推奨されているし、また自分が予期せぬような良い音も実際そういう場所で出てしまうものなのだ。

そもそも法螺貝が上手に吹けるようになる事はイコール腹式呼吸と長息をマスターするということであって、一見するとつらい登りで法螺貝を吹くことは歩行の妨げに見えるが、実は歩行を健全な呼吸によってより歩きやすいものにしているのだ。

そういう利点は敢えて公にせず、辛い登りで懸命に法螺貝を吹いているという健気な姿を誰某となくにただ披露したいというやましい気持ちが無かったというと嘘になるが、とにかく僕には、「山頂まで法螺貝を吹き続ける。」という気負いがあった。

そして西川先達は、敢えて僕のその気負いを汲んで下さった上で、人それぞれの持って生まれた体質にも依存する高山病というリスクを踏まえ、先のアドバイスを下さったのだ。

それを受けて、恐る恐るではないが充分に間隔を空けて法螺貝を吹きながら登り、かれこれ1時間以上は経った。どうやら今のところ高山病の気配は無いようである。

雲海荘で一晩を過ごすならば、その心配は殆ど無いとのことは事前に方々で聞いてはいたが、今この時点で、自分の身体からエネルギーが溢れていることが何よりもその証拠であり、先行きは明るかった。

そして夜も明けようとしていた。

おそらく、御来光を拝んだのは8合目にかかる直前ではなかっただろうか。

標高3000mを超える地点で、遙か雲海の果てから少しずつ全てが同じ色に染められていく。

御来光も、それを拝む僕たちも、同じ色に染まっている。

それはまるで、仏性というものが全ての生命に宿るとした如来像の思想を正に具象化したような光景で、主観と客体を超えた唯一不二の場に僕たちは居た。

美しいと心から感じる瞬間、きっと心もその美しさに染められていているのだ。

山頂に近づくにれ、勾配は苛烈さを極めた。
もう太ももから足を上げ、掴める石が有れば少しでも手を添えてかき登っていくような様相である。

ところどころで出くわす、今はシャッターを降ろしている山小屋の猫の額ほどの平地を通る時だけが唯一の足休めになる。

とうとう9合目の万年雪山荘まできた。

余談ではあるが、万年雪山荘に据えられた石碑には標高3460mとあった。しかし奥野先達の腕時計の表示ではそれよりも100mちょっと低かった。いろんな事情があるのかも知れないが、実際にこの場に来ないと気づけない小さなトリビアを得たことが少し嬉しかった。

いずれにしてもこの時点で、山頂の奥宮までは残り高低差400mを切っている。普段247mの大滝山でも30分かからずに登っているので、このペースだとつまりあと1時間以内で登頂は叶うのだ。

あとはもう勢いだけだった。

立って休みたい気持ちもあったが、ひたすら長い呼吸を心がけ、同じペースで登り詰めた。

頭の中では何の感動的なBGMも無く、僕は淡々と頂上入り口の鳥居をくぐりぬけた。

少し乱れた自分の呼吸の音と、赤石と呼ばれる火山礫を踏む音だけが聞こえた。

普通の山登りで頂上に来れば、振り返って麓の街並みを眺めたり、周囲を見渡して○○山が綺麗に見えるよなどと、僕もはしゃいでしまっているに違いない。

ただ、我が目で見たここ富士の山頂は、異界だった。

植物は一つもなく、砕けた岩石が織りなす荒涼とした色合いに雲の上にある青い空が対照的で、かなりの紫外線が降り注いでいることが、自分の肌身を以て感じられる。

富士宮ルートの下山口に立って周囲を見渡すと、そこよりもまだ数十mは上にある剣ヶ峰に建てられた測候所や、天井の低そうな茶屋、本宮浅間神社の奥宮や鳥居、そして同行の仲間や一般の登山客…。
人間の営みを感じさせる物や、話しかければ互いに達成感を共有し合える他者がいればこそ、その山頂の風景は僕の中で辛うじて明るいものとして写っていはい たが、正直、僕の目から感じられた山頂は、「ここでは浮かれていられない。」という、あくまで崇敬の意味での異界だった。

天気も奇跡的に快晴で、動いているぶんには気温も全く寒くはなかった。しかしその快適さは、きっと台風の目のような一時のもので、我が身を通して感じた富士の山頂は荒涼としていて厳粛なものだった。

冨嶽両界峯入修行とは宮元会長が銘打たれたものである。
そしてその両界とは、この世とあの世の二つの世界。
田子の浦から山頂までが生の世界で、山頂から樹海を抜けての精進湖までが死の世界。山頂は、まさにその両界を分かつ、何とも形容しがたい異界なのだ。

僕は居心地の悪い不快さを感じたのでは決してなく、ただ、この山頂一帯は敬われるべき聖域であると真にそう思えた。

実は霊感というもの全くを持ち合わせていない僕ではあるが、この時ばかりは尋常ではない場の力というものを感じずにはいられなかった…。

天候にも恵まれたこともあって、ペースはかなり順調に進んでいた。

予定ではここで昼食を取り、そのあと賽の河原で追善供養をして下山の流れだったが、後詰めと呼ばれる最後尾の内田先達が到着して、さほど休む間もなく勤行の準備が始められた。

このしろ池と呼ばれる小さな池には氷が張っていて、一般の登山客の少年たちが珍しそうにその氷を割っていた。

そこから20mほどの場所で我々の勤行は厳かに始められようとしていた。

でも、その風景に落胆などするはずもなく、心は晴れやかで、気持ちは日常という修行の場に静かに向かい始めていた。

最後になりましたが、大和修験會の宮元隆誠会長はじめ先達の方々、一緒に苦楽の中を歩んだ参加者の皆さん、また全員に目を配り一行をサポートして下さった会長の奥様、そして修行に行かせてくれた家族、全ての方々に感謝申し上げます。

有難うございました。

大和修験會のフェイスブックページ

この場所まで宮元会長自ら背負って来られた沢山の水塔婆一枚一枚に故人様の戒名が記されている。

それを見つめながら、大和修験會による冨嶽両界峯入修行にはたくさんの方々の想いが託されているということを僕は改めて思い知った。

我々はここまで重い荷物を背負いながら自分の足で歩いてきたのだ…。いや、歩いてこれたのだ!

何故か?

周囲の方々に支えられ、且つそれぞれが健脚で自身の健康があったからだ!

そう、今僕は生きているのだ…!

そんな自問自答を繰り返しながら、僕は泣いた。

自然と泣けてきたのだった…。
それは今自分が生きているという感動や、生かされているという感謝を体でわかったような気がしたからでもあるし、また、何故あの人たちは死んでしまったのか?、というやり場のない悲しみを伴う不思議が、やるせなく、ただやるせなく溢れてきたからだった。

普段、人一倍理屈っぽく物事を捉えている僕が、この時ばかりは理屈が無かった。

今だからこそ言葉にできるが、頭部を破壊された仏像群に手を掌わし、法華経の自我偈を唱えながら自然と涙が出てきた時、感動と感謝と悲しみと不思議が複雑に入り混じった、本当に形容しつくせない感情があった。

そしてそれは僕だけに起きたことではないようだった。

今思えば、この時、僕らは如来の大悲の中に居たのかもしれない。

(※ 大悲とは、大きな悲しみというよりも、他者の悲しみに寄り添いさらにその苦しみから救おうとする大乗仏教において掲げられる広大な慈悲の心である。)

そこでは、己の作為からの慈悲ではなく、もはや語るべき主語が究極的に昇華された、ただ、大悲のみがあるのだ。

つまり、僕という主語があり、それに述語としての感情が付随しているのではなく、富士山の山頂部まさに大日如来の懐に抱かれ、僕はほんの一瞬だけ大悲そのものであったような気がする。

お鉢巡りと呼ばれる富士山の火口をぐるっと一周するコースがあるが、僕たちは富士宮ルート下山口からそのコースに入り、時計回りに剣ヶ峰に立ち寄 り、遙か左前方に八ヶ岳を確かめながら、すぐ右手下に迫る巨大な火口の淵を蟻のように周回しながら久須志神社に着いてやっと一息、昼食となった。

実は、剣ヶ峰を下ったあたりから僕の体調は少し怪しかった。
僅かながらのだるさを感じ始めていたのだ。もう正午を過ぎた頃なのにあまり食欲が湧いていない…やはり高山病の兆候か?

とにかく久須志神社はすぐそこなので、あまり気にしないように歩みを進めた。

雲海荘で頂いた弁当をなんとか体にかき込んで、20分程の休憩時間はあるだろうと勝手に見込んで、暫しの間ひとり昼寝をすることにした。

汗は乾いているが日光の真下にいてもやはり風は冷たい。リュックからレインウェアを取り出して上着は前後ろ反対に袖を通してベンチの端を借りた。

後で気づいたことなのだが、同行の皆は僕の昼寝姿を真似して同じように日向ぼっこをしていたようである。でも実は、この時の僕は切実に体調を少しでも良くするべく致し方なくの昼寝だったのだ。(笑)

高山病の時に昼寝は良くないらしいが、僕は完全に寝てはいなかったものの横になり、とにかく基礎代謝を抑えるだけで幾分かは楽になっていた。

そして出立の号令がかかるまでその状態であったので、独り慌てて衣体を整え、勤行に加わった。

さぁ、ここからは冨嶽両界に於いての死の世界。

「頂上まで辿り着いてホッと安心するんだけど、その先がまだまだ長い。」
との宮元会長のお言葉を思い返しながら気を引き締め、通常一般の登山ルートでは登りでした使われない吉田ルートを少しずつ下り始めた。

足の甲の痛みはもう取るに足らないものになっていたが、今度は腰の痛みに心を捉われていた。

僕はかれこれ4ヶ月以上前に右の腰上の筋肉を軽いぎっくり腰で痛めていた。

つぼの位置で言うと志室と呼ばれる箇所、スポーツ医学的には腰方形筋いわゆる体幹の筋肉の一部だ。

体幹というのはざっくり言うと身体のバランスを保つ上で必須の筋肉である。

その体幹をぎっくり腰で痛め、ここへきて痛みが再発しだした最大の理由は、急な下りで転落しないようかなりの負荷を患部にかけていたからだ。

しかも僕1人だけ自分の意思で杖を持ってきていない。

下りでよく話題にされる膝の方は問題無かったが、今回ばかりは杖の必要性が身に染みてわかった。

両足と斜面によって作り出される一歩一歩の振動が患部をブルブルと共振させる。

日頃の身体的な故障は、それが小さな故障に思えても、普段なかなか意識できない身体の内部に、実は密かに潜在しているものなのだ。

僕は現在33歳、10代の頃のようにはいかないことは確かにある…。

延々とつづら折りの下りが続く。

富士宮ルートに比べて山小屋が多い吉田ルートをかなり下まで下ってきた。

振り返ると、山頂はもうそこで誰かが手を振っていてもわからないほど、もとの近寄りがたい気高さを取り戻している。

例年はなだらかなブル道を、傾斜を稼ぐ分距離をかけてひたすらザクザクと進み下る道らしいが、今年は正規の吉田ルートをそのまま下ってきた。

いつのまにか辺りには木々が広がり、太平洋側の富士宮ルートでは目にできなかった紅葉が、内陸側の吉田ルートでは既に始まっていた。

この地点でもまだ標高は2400mはある。

途中、日蓮上人が法華経を安置したとされる岩屋でも勤行をさせていただいた後、少し歩みを進めると、微かに焚火の香りが漂ってきた。

時刻は午後6時に迫っている、念のためにヘッドライトで足元を照らしながら、赤よりも黄色が目立つ紅葉の中を抜けると、本日3日目の宿である星観荘に到着した。

当初は昨日の2000mの登りに比べて、今日の1400m程の下りは大したことはないだろうと甘く見ていたが、いやいや、実に長い下りだった。

星観荘に祀られている不動明王は宮元会長が開眼(魂を入れる作法のこと)をなさったそうで、その御縁もありオーナーからの計らいで夕食は豪華だった。

ボリュームのあるお弁当に、野菜中心のおでんがコンロの上に据えられていた。

温かい食事にありつけることが本当に有り難く、そして何よりも同行一同が元気にこの場にいられることが嬉しかった。

昨夜に引き続き宮元会長から法話を頂いた。

「この3日間を振り返っての精進、努力、忍耐、心掛け、それらはこの3日間だけに留まるものではなくて、いつでもそう在ろうとしなければならない!」

そのお言葉を聞くのと同時に、それぞれ皆の心には更なる発心が生まれていた。

それは、改めて問うまでのことではなかった。

最終日

星観荘を出立してすぐに御来光となり、僕らは小御嶽神社に参拝した。

この日も天気は快晴である。

御来光の朝日が山肌にかかると、昨日は薄暗くて細部まで見えていなかったこの地の紅葉の美しさに心を奪われた。

どおりで一般の参拝客が多いはずである。

小御嶽神社には大きな駐車場も完備されていて、もうここでは紅葉のレジャーシーズンが始まっていたのだ。

僕はふと、小御嶽という名前が気になって、稀少な刀鍛冶であられる内田先達に質問を投げかけてみた。

僕の浅はかな仮説である富士山を御嶽としての小御嶽ではないのか?、という問いに対して、内田先達からは意外な回答が返ってきた。

「実は、小御嶽神社は小御岳火山という火山の山頂の上に建てられています。富士山に比べて小さく見えますが、火山としては10万年以前のもので、その後古富士火山ができ、さらにその上に被さるように今の新富士火山が出来ています。」

「その地学的歴史を裏付けるように、小御嶽神社の御祭神は磐長姫命(イワナガヒメ)といい、富士山の御祭神である木花咲耶姫のお姉さんになっているんです。」

何というミステリーだろうか!

日本神話を構築した古の先人たちは、富士山に比べればとても小さいこの小御岳を富士山出現より以前のものと、何らかの根拠を得て知り得ていたかもしれないのだ。

こういった所にも富士山の奥深さを感じずにはおれず、ますます自分の中で知識としての富士山が更新されていくのだった。

そして道はかの有名な青木ヶ原樹海を通り、精進湖へと続く。

樹海という言葉のもつイメージは、現在ではマスメディアの影響のせいかあまりよくないような気がする。

樹海=自殺の名所、という先入観を抱かれることが多いのではないだろうか。

しかし、いざ樹海を歩いてみてるとそんな先入観はすぐに払拭された。(僕がその雰囲気に感動した場所は樹海でもかなり標高が上のほうではあるが)

富士山麓の原生林。地元高知の山々では聞いたことの無い野鳥の鳴き声も聞こえる。地面は、落ち葉が堆積して適度に踏み固められた柔らかな歩き心地で、心も体も癒されていく。

小御嶽神社の云われを教えて下さった内田先達が顔をほころばせながら、「この道は険しい道を歩いてきた人へのご褒美のようで、自分も大好きなんです。」と話されていたのがとてもよくわかる。

けれども、道が緩やかな下りで歩きやすくなった分、ペースは少し上がり、休憩をとる感覚も空いてきた。

大和修験會の山修行での特色は、『何も物を持たない手は常に内拳にして腰に当てる』つまり、手をブラブラさせて歩かないということである。

常に精神を集中した状態で山を歩く、その姿勢が腰にあてがう内拳に表れている。

歩きやすく心地の良い道でも、ピクニックに来たのではないのだから、けっして私語は始まらない。

また、逆に言うと、そういう緊張感を持続させる為の内拳であり、またその姿勢は人生に本気で向き合う宮元会長の基本姿勢であり、大和修験會のモットーなのだ。

ゴールを間近に控えながらも、微かな気の緩みを感じていた僕は、今一度そんなことを考えながら自分の基本姿勢を正そうとしていた。

いよいよ、精進湖まであと3km程に迫ったところで、最後の新客行(初参加の人が修めるべき修行)が待ち構えていた。

しかし残念ながら、この新客行についての一切はここで語ることが出来ない。

何があって、何をして、何を体験したのか…、それは実際にこの大和修験會の冨嶽両界峯入修行を最後まで歩き通して、己の心身で対面していただきたいと切に願うばかりである…。

精進湖に近づくにつれて、気温が上がってきたことに気づいた。

苦行から解放されるといった喜びを待ち望む胸の高鳴りなど微塵もなく、僕はただ淡々と最後まで確実に歩みを進めるだけだった。

法螺貝の音は既にヨレヨレになってきてはいるが、それでもさっき吹いた音よりも綺麗な音を出そうと懸命に吹く。

そもそも修行は苦行ではない。

自ら発心を起してこれに参加し、自らの肉体を通して何かを修しているのだ。

体裁を作ろう言葉で言えば、それは六波羅蜜を修することである。しかし、六波羅蜜の再解釈など言葉を操れば幾らでも自己啓発的な文言を並べられる。

修行を語ることと、いざ自分が修行に入ることには大きな隔たりがある。

その隔たりを作る物こそが自我であり、自我とは我欲であり、また一切の苦楽を感じるところの体感である。

その己の体感を通して、苦痛や美や感動を感じて、がむしゃらに淡々と何かを修していくのだ。

思うにそれは、詰まるところ人生そのものではないだろうか?

繰り返しになるが、修行とは人生の縮図であるというのが、今回この富士山での修行を通して僕が僕なりに気づいたことなのだ。

密かに僕が思い描いていた精進湖のゴールは、美しく澄んだ湖の上に自分達が下ってきた富士山が映し出され、正にお涙頂戴的な絵になる場所であった。

しかし、いざ辿り着いたゴールは、富士五湖の中で最も小さな精進湖のしかも端っこの淀み、遊覧カヌーが積み上げられた何の変哲もないただの河原だった。

でも、その風景に落胆などするはずもなく、心は晴れやかで、気持ちは日常という修行の場に静かに向かい始めていた。

最後になりましたが、大和修験會の宮元隆誠会長はじめ先達の方々、一緒に苦楽の中を歩んだ参加者の皆さん、また全員に目を配り一行をサポートして下さった会長の奥様、そして修行に行かせてくれた家族、全ての方々に感謝申し上げます。

有難うございました。

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