『四国御中道を終えて』
本山修験宗 護国寺 谷 泰智
高知県中央部に位置する土佐市の浜辺から、透明度日本一を誇る仁淀川に沿って深山に分け入り、そして伊予富士から瓶ヶ森へと四国山脈を東西に縦走して石鎚山に登拝、さらにそこから瀬戸内海に面した愛媛県西条市の龍神社まで歩き通す修行、大和修験會の代表宮元隆誠師はそれを『四国御中道』と銘打たれた。
時を遡れば令和元年、大和修験會の冨嶽両界峯入の4日目、青木ヶ原樹海を精進湖へと向けて進む私の頭の中で、太平洋から石鎚山に登拝するという前代未聞の発想が閃いたのは、そもそもが大和修験會の富士峯入10周年を来年に控え、何か記念となる行事が出来ないものかと宮元代表から打診を受けていたからであった。
石鎚山は修験道の開祖役行者神変大菩薩によって開山された西日本最高峰(1982m)の御山であり、現在でも四季を通して一般登山者はもとより石鎚本教の信仰に支えられる名だたる霊山である。
現代になって定着している表参道は愛媛県側だが、反対の高知県側にある大瀧の滝(おおたびのたき)で浄めをし、筒上山(つつじょうざん)を経て登拝するというルートも歴史が古く、その筒上山の山頂近くのかむろ岩から湧出された躑躅王権現(つつじおうごんげん)(つつじおう→筒上)が石鎚蔵王大権現の前身であるという背景がある等、とにかく石鎚山にまつわる歴史は未だ神秘に包まれた修験の法脈に裏打ちされている。
当初、令和2年に計画していたこの度の修行は、コロナ禍により当年とその翌年も中止を止むなくされた。そしてこの度、正に満を持しての開催となり、5月26日から29日にかけての4日間、総距離なんと160kmという凄まじい峯入りとなったが、行者7名の内6名が満行を果たすことが出来た。
しかし、特筆しておかなければならないのは、残る行者1名と車両サポート2名、同行カメラマン1名の合計10名、この内の誰か一人でも欠けては修行が成し得なかったという事実、そして道中安全を祈願して下さった宮司さん、鈴懸を乾かしてくれた旅館の御夫婦や骨を折って精進料理を構えて下さった料理人さんなど、我々の安全を祈り支えて下さった方々の有り難さ。今この場をお借りして、衷心より感謝御礼申し上げる。
第一日目
一週間前の天気予報は好転し、雨は午後から降り始めるらしく、水垢離を終えた我々は気持ちよく鈴懸に袖を通すことができた。
土佐市の仁淀川河口大橋のたもと、視界に入りきらない群青のパノラマはこの先の不安を投影したかのように少し暗く感じられたが、実際不安は自らの蚊帳の外で、私の内心は既に感謝と喜びに満ち溢れていた。何よりも自らが健康でこの日を迎えられたこと、そして宮元代表はじめ大和修験の馴染みのメンバーが遠方各地よりこの場に会して下さったからだ。
今日からの4日間、とにかく先駆先達として全員を無事に結願の瀬戸内海まで案内する、その重責と高まる高揚感を引き換え、遠すぎて目視できない石鎚山の方角を見やりながら、太平洋を背に早まることなく歩みを始めた。
四国には、四万十川、吉野川そして仁淀川という3つの河川が『四国三郎』という名で親しまれているが、実はこの3つの河川の源流地点は全て石鎚山脈である。中でも、今我々の歩みに並行している仁淀川は山々の間を大きく蛇行を繰り返して次第に川幅を増し、太平洋へと注いでいる。
水質は公式にも認められた透明度日本一で、それは周辺地域に漁業や紙漉の産業・文化をもたらし、さらに現在では自然体験型観光には欠かせない重要な資源となってはいるが、裏を返せば資源は消費され尽くすのがこの世の常である。仁淀川を単なる観光資源に留まらせず、山からの水分(みくまり)の恩恵に目を向けるきっかけとして啓発できればと、地元流域に生きる修験者としてこの修行に想いを込め、道を定めた。
川沿いの平坦な道を4時間近く進み、高速バイパスの歩道を経て日高村に入り小村神社に到着した。予定時刻は1時間以上遅れていたが焦りは無かった。
土佐二宮に格付けられる小村神社の創建は西暦587年に遡り、所有せられる金銅荘環頭大刀拵・大刀身(こんどうそうかんとうたちごしらえ・たちのみ)は7世紀前半に作られた大変貴重なもので紛れもない国宝に指定されている。
また、国道と線路を挟んでこの神社の向かいに位置する神宮寺は拙僧の自坊護国寺と同じく聖護院の末寺であり、しかもかつては小村神社と接して立地していたようで、寺号もさることながら正に神仏習合の名残を現在に伝えている。
我々は小村神社、神宮寺ともに勤行させていただき、また有難い御接待を受けた。殊にも小村神社では拝殿の中で正式参拝をさせていただき、吉田宮司から道中安全と満行成就のお祓いを受け、朝の海水での水垢離と共に心身の修祓を終えた。
ここまで海から15km。普段の日常では中々の距離に思えるが、今回の四国御中道に於いては全行程の10分の1にも満たず、ほんの足慣らしといった感じである。ここからは標高300m少々の錦山の台地を抜けて再び仁淀川に合流し、国道194号線のアスファルトを延々と歩き続ける修行が始まる。
天気予報は当たり、小村神社を出ると間もなく雨が降り始めた。錦山の勾配のきつい登りでは土砂を満載にしたダンプカーが行き交うが、数日前に土木事務所へ御断りを入れていたせいか、ドライバーは皆スピードを落とし間隔を空けて通過してくれ、そんな気遣いが雨の中を歩く身としては有難かった。
錦山の上は広大な茶園とゴルフ場が広がっていて、我々はその中を黙々と進んだ。この台地は別名霧山とも呼ばれ、本当にこの日も霧が立ち込めていた。もちろん、この霧も石鎚山脈からの風が仁淀川の上の湿度を運んできたものであり、この修行の道中は常に自然の恵みを感じずには居れない。立ち寄らせていただいた霧山茶園にて商売繁盛の勤行をさせていただいた後、熱いほうじ茶の御接待を受け再び仁淀川に合流した頃、時刻は午後4時を回っていた。雨足も強まる中、国道の縁の狭い歩道を歩き続け、夜の7時40分、ようやくこの日の目的地に到着した。
第二日目
昨日予定を大幅に押して宿に着いたにも関わらず、この日なんと宮元代表は出発を1時間遅らせる判断をされた。予定では昨日よりも距離が伸びる2日目であったので、少しでも行動時間を確保したい私にはそのような発想が無かった。しかし宮元代表は昨日の反省点を即座に改善し、時間の短縮を見込んだうえで且つ睡眠時間を少しでも増やして体力を回復させるという柔軟な判断を下されたのであった。
宮元代表は日頃、「私は感覚で生きている」と仰っているが、このような状況に応じた的確な判断を下せる『感覚』は熟練の修験者特有のもので、宮元代表の傍の身にとっては非常に頼もしく、また大変勉強になるのである。
GPSを用いて計測した昨日に歩いた距離は予測を5km程上回り、42.16kmであった。3年前から計画を練り、全行程を自分の足で歩いて道を頭に叩き込んではいたものの、打ち通しで歩くまでの余裕が無く、それは断片的なものを切れ目なく継ぎ合わせたような調査であった。結局この日も43.8kmを歩く事になるのだが、アスファルトを地下足袋で連日40km以上歩く負担は実際相当なものであった。事前の訓練や歩き方の工夫無くしては、山に入る前に足裏がダメになってしまっていただろう。
余談になるが、四国御中道の行程をざっくり説明すると、それは四国を南北に縦断する道であるが、この『縦断』という言葉が個人的にはとても気にかかっていた。なぜなら、四国はそもそも弘法大師ゆかりの遍路の地であり、遍路とは辺路、つまり辺境を巡り回る道であり、言い換えれば四国をぐるりと囲む道である。その道は弘法大師入寂以降、民間信仰の中で巨大な結界と捉えられる向きもあり、縦断とはそれを縦に断つというイメージを与え、四国の人々に悪い印象を与えるのではと独り危惧していた。
しかし宮元会長が銘打たれた『四国御中道』という名前には、その負のイメージを払拭する働きがあり、また本来は富士山の中腹をぐるりと一周する意味の御中道を、敢えて四国のど真ん中の中道という意味にして大和修験會の富士山での10年間を四国に関連付ける意味合いもある。
この日は只々ひたすらに国道194号を進み続け、石鎚山脈の縦走路への登山道入り口まで迫る行程であった。距離もさることながら海抜70mから1100mまでの登りでもあり、ひょっとすると4日間の中でもっとも単調且つ過酷な日かと思われたが、昨日夜通し降り続いた雨が上がり、天気は快晴となったお陰で大変清々しく歩くことが出来た。また、距離を少しでも短縮する為に通過した大野農道では谷川の水が澄み渡り、参加者一同に仁淀ブルーの美しさを体感していただけたことは、高知の人間としてとても嬉しかった。
何よりも、この日の早朝、我々が綺麗に乾いた鈴懸を着て気持ちよく出発することが出来たのは、初日の晩にお世話になった川又屋旅館さんの女将さんとご主人の御厚意のお陰である。初日の夜、予定を大幅に遅れて8時頃に旅館に到着した我々を御夫婦は温かく迎え入れ、またこちらからの要望であった完全精進料理にも快く対応して下さり、そのうえ、7人分の衣体を全て洗濯から乾燥まで文字通り夜通しで行って下さった。
このように支えて下さる方々のお陰で我々は修行が出来ているのであり、常日頃から申し上げている事であるが、改めて『修行をさせていただく』という感謝をひしひしと噛みしめながら歩いた一日であった。
第三日目
アスファルトから解放された3日目、標高1100mの旧寒風山トンネル入り口前は、UFOラインと呼ばれる林道の入り口でもあり、またかつて土佐と伊予を結ぶ物流の要衝であった桑瀬峠への登り口でもある。
桑瀬峠はそこから東側の寒風山と西側の伊予富士との間の鞍部であるが、見晴らしは良く、瀬戸内海と高知の山々を対称的に見渡すことができる。また足元には熊笹が生い茂り、5月前半頃まで満開であったと思われるツツジの咲き残りがそれでも十分に美しく、快晴の空と緑に連なる尾根の中にアクセントのような彩を留めていた。
またちょうど尾根の左右が入れ替わりながら続く道中は、瀬戸内海側を歩く時は涼しい風を感じ、高知県側を歩く時は無風となり若干の熱さを感じた。瀬戸内海は遠くに広島の尾道あたりまでがはっきりと見渡せたが、太平洋は遠すぎて目視できなかった。つまり石鎚山脈は四国の北部に寄っていて、その分高知県側の山襞は幾重にも織りなしてその領域は深大、確かに遙か古には妖怪や物の怪達が豊かに蠢いていたに違いないと思えてくるのであった。
隊旗を掲げながら歩く私のペースは事前の想像以上にゆったりとしていた。とにかく安全に、そして皆を満行に導く為に、慎重な足取りで常に呼吸を一定に調えながらアップダウンを繰り返す。
最初のピークである伊予富士(1756m)は間近で見ると富士山とは全く似つかわしくないが、山頂寸前の斜度は富士山の九号目からの登りを彷彿とさせ、宮元代表の発頭で六根清浄の山念仏が唱えられた。
山頂に到達し、バッグから取り出した碑伝を山名と標高が書かれた看板の柱に結び付けた。富士山では通年の碑伝に新しいものを添えていく行為が、ここ四国の石鎚山脈には瓶ヶ森に至るまでは一枚も碑伝が置かれておらず、新鮮な気持ちと正直誇らしい気持ちで、『四国御中道』と書かれた文字を感慨深く眺めた。
視界を西に向けると、尾根の笹の中を貫く縦走路は瓶ヶ森まで連なり、さらにその向こうには石鎚山がその険しい山容を顕して我々を待ち構えている。休憩もそこそこに次のピークの東黒森へと歩みを進めた。
東黒森のピークを下ると、縦走路はUFOラインの車道と合流する。時刻は10時前で、少し長めの休憩を挟んだ。今回の修行が大変に過酷なものであることはもう何遍も繰り返し述べているが、実は、石鎚への登拝以外は常に2台の車両班が並走し、所々で合流できるようにスケジュールを組んであった。先導する1台目は道を心得ている私の母が運転し、2台目は宮元代表の奥さんが運転する。つまり行者が背負う荷物は最小限に抑えられ、そのぶん歩きに徹することができるのがこの修行の利点と言えるかも知れない。
ついでにお伝えしておくと、奥さんはビデオ撮影を担当し、それは後日編集されてYouTubeにも載せられる。長道副会長も主に撮影を担当され山中の険しい場所での模様もカメラに収められる。さらに宮元代表は宿での就寝時間や休憩時間の合間を縫って、それらの画像をSNSにアップされている。
行中にSNSに?がることを宜しくないと考える人もいらっしゃるだろうが、誤解していただきたくないのは、これらは全て、本会を支え応援して下さっている方々へのリアルタイムの報告の為であり、決して自己顕示的な気持ちからではないとうことを御理解いただきたい。出世間の道理を離れた山岳抖?であるべきなのは重々承知の上でも、やはり多くの人々の想いを担っているからこそ登拝を果たせているわけである。
思うにこの3日目の縦走路のルートは、大峰奥駈修行さながらの風景と行程で、平均標高1600mの尾根道から200mを越えるアップダウンを繰り返し距離を重ねていく。西黒森(1861m)に登ったかと思ったら、稼いだ高度は惜しみなく下げられ、また綴らな急勾配を登り次の瓶ヶ森女山(1897m)へと道は続く。
二つのピークを持つ瓶ヶ森は、その名の如く女山は丸みを帯び、対して男山は厳めしく岩が露出しており、それらは互いに蔵王権現が祀られている。現代でこそ縦走路や林道が整備され瓶ヶ森への登拝は比較的容易になったが、かつてここから西隣の子持権現山さらには筒上山並びに石鎚山一帯は、それらの山々全てが聖域とされ、敬虔にして行を重ねた修験者のみが立ち入ることを許されたと聞く。また、瓶ヶ森を『石土山』(いしづちさん)と称していた時代もあったようで、その当時の石鎚蔵王大権現は瓶ヶ森に祀られていたらしい。(そのあたりの詳しい歴史については識者の先達方に御教授を賜りたい。)
男山からの下りは歩きやすい遊歩道のようになっていて、車道との合流地点には大きな駐車場もあり、ドライブで訪れた一般客やキャンプに来た人々で行楽シーズンは特に人が多い。我々もここで休憩を取り、本日3日目最大の難所である子持権現山の鎖場に向けて態勢を整えた。
時刻は午後3時半を回った頃、子持権現山の鎖場の取りつきで勤行を済ませ、宮元代表からお加持を受けて、いよいよ鎖の行が始まった。
斜度70度、長さ80mという峻厳な行場、一般の人は先ず登ることをためらう。石鎚山へと続く縦走路はこの行場の南下をトラバースしてはいるものの、やはり本山派の修験者としてはこの行場は避けて通れない。
なにより、この鎖場を登り切った頂上から少し西へ下った斜面にある岩窟には、形容し難い神性な霊気が立ち込めており、修験者なら誰もがここに参らなければならないという気持ちにさせる何かがある。そこにはもちろん蔵王権現の小さな尊像が祀られているのだが、その岩窟だけではなく、実は子持権現山自体が巨大なさざれ石(石灰質角礫岩)の塊であり、その極めて特殊な唯一無二の山容そのものに蔵王権現が顕れていると言っても過言ではない。
ところで、大日岳など大峰奥駈の鎖場を経験されている方々には想像に難くないと思われるが、鎖場とは大抵の場所の岩がゴツゴツとしていて、足場の確保が比較的容易である。 しかし、この子持権現山は斜度がキツい上に岩肌には大きな凹凸が少なく、雨の日は特に危険である。この日は幸いにして天候に恵まれ岩肌も濡れておらず、一同気を引き締めて一手一足を確実に、全員無事に鎖場を登りきることができた。
前もって心構えはしていたつもりだが、先達の身でこのような鎖場に人を案内することの恐ろしさを今回改めて痛感した。また本山の奥駈で何十人もの人々を引率されてきた内局の先輩方や行者講の方々の偉大さも同時に思い知らされ、さらには経験や覚悟だけでなく、神仏の守護による好天候に恵まれなければ行をさせてもらえないという意味もはっきりと自覚した。
無事鎖の取りつきまで戻った我々ではあるが、この日の行程はまだまだ終わらない。そこから暫く縦走路を進み、また車道との合流地点に出た。そこは山荘しらさの駐車場にもなっていて、ここでも商売繁盛と操業安全の祈願勤行をさせていただき御接待を受けた。
さすがに太平洋からここまで歩いてきたという人は未だかつて一人もいないらしく、総支配人さんは我々の勤行にいたく感激して下さり、碑伝も納めて下さった。その碑伝を目にする人が増えることで、やがては石鎚山脈が修験道の聖域として再認識されることを願って止まない。
この時点で時刻は18時に迫っており、本来の山行では行動が危険な時間帯にかかってくるが、林道の車道はライトをつけて進む。残り5.6kmという道のりを力を振り絞って宿へと歩いた。
陽が沈むころ、西日に照らされた石鎚山はあまりに美しく、身体に溜まった疲労感が少し和らいだような気がした。そして20時15分、高知県側から石鎚山への登山口にあたる土小屋遥拝殿で勤行し、この日の行程を終えた。
第四日目
昨日、標高1400mの石鎚国民宿舎に到着したのは夜の20時半、夕食と入浴と明日の準備を済ませて就寝出来たのは22時を過ぎていた。けれども本日の出立時刻は3時、逆算して2時の起床となり、結局4時間も寝ていない状態で最終日を向かえた。
不思議なことに、短い睡眠時間にも関わらず身体の疲労感は消えていて、心地良い涼しさを感じながら闇夜の登山道を登り始めた。道は大変歩きやすく、時刻が4時を過ぎた頃には空も白く明るみ始めた。
昨日の山荘しらさまで踏ん張られていた土屋先達は、今朝自ら車両サポートに回られた。富士山の村山古道を整備して下さっている熟練山伏の土屋さんでさえ、前半のアスファルトで足裏をやられていたのだった。しかしそれは、精進が至らなかった訳では決して無く、後で聞いた話によると、靴下の選び間違いという些細なことが原因であったらしい。
しかし、それを単なる些細なことと捉えるのか、それとも神仏の加護が関与していたからこそのことなのか、私の立場で明言することはできない。けれども真剣な修行で起こることの全てには意味があり、それを有り難く前向きに捉えることで、必ず何かしらの気づきや導きを頂けるという事を、今までの大和修験會の峯入りの中で私は確信している。
歩きやすく整備された登山道は次第に険しさを増し、山頂部からの落石により道が壊されている箇所も所々で見受けられた。休憩は極力抑え、集中力を高めながら2時間ほど登ってきた時、二の鎖(65m)の下に着いていた。ちょうど御来光もその時で、我々は日天に更なる加護の願いを込めて一心に読経を捧げた。
いざ、呼吸を整え右手から掴んだ石鎚の鎖は冷やりと太く重く、これからのひと時の間、己が生命を預けるに足る頼もしさと御力(おんりき)が掌中から全身に漲ってきた。宮元代表の二人の娘さんの前に私が先行し、宮元代表は二人を後ろからさらにサポートする形で、常に三点支持を意識して後ろを振り返りながら登った。
子持権現山の鎖場とはまた趣が違い、鎖の輪は私の足が余裕で入る程大きく、それを取っ掛かりとして下半身も支えることが出来る。左右上下に目を見張れば、取り付きやすい岩の切っ掛けもあるにはあるが、それらの岩肌をよく見ると接着剤で補強されている箇所も多く、このような鎖場は鎖のみを使って登ることがより安全であり、鎖を信じて身を委ねるのみであった。
続く三の鎖(68m)は先程よりもさらに斜度が上がりほぼ垂直の壁のようだが、鎖を梯子のように用いて、一手一足、確実に手ごたえを確かめながら登っていき、束の間の安堵の溜め息と共に山頂の弥山社に到着した。
ここまで辿り着いたのなら、天狗岳はもう目前であるが、ここからは真に険しい馬の背を15分ほど進まなければならない。ここは奥駈で言うところの孔雀岳手前のような、進行方向の左右が切り立った非常に危険な岩稜である。実際2週間ほど前も、この馬の背を形成する岩壁の一部がごそっと剥がれ落ち、100mほど下の登山道の橋を潰している。そのような天狗岳に見られる安山岩の節理は、かつて1500万年前にここが火山であった証しでもあるのだ。
「こけたらあかんと思いながら歩くと、こけたときに怪我をする。いつでもお尻をついて安全にこけれるように態勢を落として進みましょう。」、私がいつも地元の大瀧山で言っていることであるが、今こそこれを自分自身に言い聞かせ、後ろに続く昭桂理さんや美桂理さんへのサポートに気を張った。
時刻は6時半ごろであった。天気は快晴で視界は360度スッキリと開けている。大和修験會の旗が天狗岳の真上にはためき、厳かに回向勤行が始まった。
毎年、富士山の山頂でも必ず回向勤行を修していることもあり、今回も行中の最高峰に当たるこの天狗岳では回向を行うことになると思っていた。けれども今回の回向には、『鎮魂』という想いを一層強めて臨んだ。大和修験會ひいては本山修験宗の法縁各霊位、さらには霊位に留まらず今現代を生きる世界万民の人々の不安や悲しみに想いを馳せながら、弘く大和(だいわ)の願いを込めて静かな祈りを捧げ、再び弥山社へと戻った。
弥山社から見渡せる景色の中、瀬戸内海に楕円を突き出すようにして禎瑞新田が認められる。その東端、赤い鉄塔の傍に結願の場所である龍神社が小さいながらも確かに見えている。しかし我々は今から10時間以内にそこに辿り着かなければならないのだと思うと、一気に気持ちは引き締まり、少しペースアップした足取りで山頂を後にした。
二の鎖まで戻ると、そこからは我々が来た土小屋方面と、これから向かう成就社(標高1450m)へと道が分かれており、その先は一の鎖(33m)と試しの鎖(74m)を慎重に下った。
成就社のすぐ下には麓からのロープウェイが繋がっており、愛媛側から石鎚山に登るたいがいの人はこれを利用する。遥拝殿で下山の一礼を済ませた我々は奥前神寺の前から石鎚スキー場を横切り、現在はほとんど人が通らないかつての表参道にあたる今宮登山道を下った。
車両班との合流(海抜224m)まで6kmの距離であるが、一気に1200mの高低差を下る。足のクールダウンも兼ねてゆっくりと行きたいところだが、時間的な事を考えるとここで若干でも短縮を図りたいと思い、修験者特有の下りの強さを発揮しつつも後続を気にしながら駈け下りた。
三十六王子社の幾つかや、巨大な乳杉、かつての茶屋跡、それらを包む檜と杉の木立の中を延々と下ると、次第に川のせせらぎと車の音が大きくなり、バス停のある河口(こうぐち)に着いた。幸いにして時刻は予定通りと言った感じで、車両班とも無事合流できた。
いよいよ四国御中道も終盤に差し掛かり、後は県道142号線をひたすら海に向かって歩くのみである。気温は31度、笠を被り直し軋む足腰を奮わせ、無漏から有漏への帰り道さながら龍神社へと歩み出した。
思えば大峰奥駈修行の5日目も前鬼の小仲坊から前鬼口のバス停までアスファルトの道のりを10km歩くのであるが、四国御中道では17kmの道のりである。
我々の表情は明るかったと思う。けれども、自分も含め我々一同は既に疲労困憊のはずであった。もはや気持ちだけで歩けている状態で、ましてや疲労の上に暑さが圧し掛かってきている。ペースを上げ過ぎず、落とし過ぎず、水分補給を充分に挟み、速度計と時計をなんども確認しながら12kmほど進んだ頃、カーブの向こうに海が見えた。
残る5km、松山自動車道を潜り国道11号線を渡ると目の前には氷見新開の広大な麦畑が広がっていて、そのどんつきを左折すると我々はもう禎瑞新田の左縁まで来ていた。
緩やかに右へ右へと堤防の円周に沿って歩きながら、「次のカーブを曲がれば龍神社だ!」という自問自答の呟きに3度ほど裏切られた後、遂に龍神社が現れた。
車両班の香芳理さん、母、土屋先達、カメラマンの山本さん、RKC高知放送のクルーの皆さんの姿が見えた。俄然法螺貝の音に力が入るが、出したくてももはや低音しか出なくなっている。最後の階段で転ぶことがないよう鳥居を潜り、16時40分、主祭神である大綿津美神(おおわだつみのかみ)の御前に辿り着いた。
願文奉読と共に最後の勤行が終わり、満行証が手渡され、宮元代表の挨拶の中で『念と縁』の話がされた。
実は、5時間程前ちょっとしたアクシデントが起こっていた。最後の17kmを歩き出す時、長道副会長がGoPro(高画質小型ビデオカメラ)が無くなっていることに気づいたのだった。
それには我々が石鎚山頂の鎖場を行ずる時の模様が克明に捉えられていた為、山本さんが独り駈け上がって往復3時間をかけて探してくれたものの見つけることができなかった。警察の遺失物係りへ一抹の希を託しながらも諦めかけていたころ、GoProを拾ってくれていた人と山本さんを迎えに行ってくれた土屋先達とが偶然出会い、吉祥が起きていたのである。
いや、深く考えれば吉祥ではなく、正に霊瑞であると私は思った。後で詳細を知ったのだが、拾って下さった方は山頂で我々がGoProで撮影しているのをしっかり憶えてくれていたようで、だからこそ落ちていたGoProに気づき、また土屋さんがその方に気さくに今回の修行の話をしてくれた縁が?がったのだった。また、山本さんを迎えに行くというそのタイミングでなければ、その方に会うこともなかったであろうし、いろんな縁が重なっているのであった。
挨拶の中で宮元代表はそのことを『念と縁』と言われた。
「これは単なるGoProであってただのビデオカメラです。しかし、この中に入っている映像には我々が太平洋から歩き通し真剣に鎖場を行じた、その念が込められている。神仏はわざわざこのような霊瑞を起こし、我々にそれをお示しになされた。だからこそ、我々は本気で真剣に生きなければならない。それぞれの目標に向かって本気で真剣に行ずる時、必ず神仏は導いて下さる。」
宮元代表の言葉に胸を震わせながら、私は今回の修行で何を学んだのかを振り返った。
綿密だと思っていた計画は実際の団体行動となるといろいろ狂いが生じた。しかし、その場面場面で宮元代表が即座に修正を加えて下さったお陰で、それは大きな狂いとはならなかった。
何よりも天候に恵まれたことで、鎖場等でのリスクが圧倒的に軽減されていたのは、裏を返せば天気頼みの半分賭けのようなものであったかも知れず、先駆先達として人を導く厳しさを諫められたようにも思う。
以前にも増して心に響くようになったのは、本覚讃の最後の言葉である。
今回の修行の場の多くは私にとって通い慣れた道であり、また見慣れた景色でもあった。しかし、鈴懸を着てそこを仲間と共に修行として歩く事で見えたものは、新たに展開される世界やステージではなく、本より完成されている限りなく広大な功徳に満ちたこの現実であった。
その現実を本気で生きることができるのならば、苦楽は本来対立するものではなく、有難さの中に包摂される尊ぶべきものであり、その気づきこそが私にとっては一つの空(くう)であると、今心から思えてならない。
無辺徳海本円満
(限りない徳が海の水のように私たちの中に満ちあふれている)
還我頂礼心諸仏
(あらためて私たちは諸仏を心から礼拝いたします)
合掌
令和4年6月13日 大瀧山護国寺 谷泰智