江﨑 昌典
平成29(2017)年10⽉、新客として冨嶽両界峯⼊修⾏に参加させていただいて以降、今年で5回⽬の参加となる。昨年まで10⽉初旬は富⼠修⾏として定着していたのだが、令和5年度、第13回⽬の修⾏が降雪の峯歩きとなったことを機に、令和 6 年度、第14回⽬から7⽉初旬に変わったのである。わずか3ヶ⽉早くなっただけだが、気温、⼭の植⽣、登⼭者の状況などすべてが違っていた。
初⽇の修⾏の⾏程は、⽥⼦の浦で⽔垢離を取り(禊をすること)、富⼠塚に⼩⽯を納め、吉原本町の商店街を通過する際に御加持を⾏い、天神社で安全を祈願し、村⼭浅間神社を⽬指す。村⼭浅間神社は、古くは村⼭興法寺として神仏混淆の修験道の道場であったが、明治廃仏毀釈により、村⼭興法寺が廃され、神社として遺ったものである。2⽇⽬は、村⼭浅間神社から村⼭修験の峯⼊道である村⼭道を歩き、静岡側富⼠6合⽬の宝永⼭荘で⼀泊、3⽇⽬は富⼠宮⼝登⼭道で富⼠⼭頂を⽬指し、吉⽥⼝の下⼭道を歩き、⻘⽊原樹海を抜け、富⼠五湖のひとつである精進湖まで歩く。
7⽉ 5 ⽇(修⾏初⽇)、早朝の⽥⼦の浦、鈴川海岸での⽔垢離は、⼼地よいものであったが、その後の吉原商店街での御加持は、猛暑・酷暑が⾝体に応え、⼤変つらいものとなった。吉原商店街を巡る中、暑さで⽴っていられなくなり、座り込んでしまったのだ。もしかしたら、歩けないかもしれないという不安が頭によぎった。正午頃、吉原天神社の社殿での登拝安全祈願が⾏われ、内⽥義基副会⻑による法剣作法、伊藤仁美⽒による巫⼥舞が奉納された。俊敏な⼑捌き、優雅な舞は⾒事なものだった。私は、他⼭の修⾏、例えば⼤峰奥駈修⾏、出⽻三⼭神社や⽇光男体⼭の登拝修⾏にも参加したことはあるが、このような奉納を⾒ることができるのは冨嶽両界峯⼊修⾏だけである。⼤和修験會はフェイスブックで、「修験道を通じて仏道を極め⼈々の⽣活の中で道標となれるよう切磋琢磨し励んでいく事を⽬的とした信奉者の会」と紹介されているとおり、宗派も、聖俗も、年齢も、性別も、国籍も、すべてを包摂した修験の会だからできることだ。
吉原天神社でのひと時は、私の体にも休息となり、体調は戻ったものの、その⽇の終着地点である村⼭まで、カンカン照りの中、アスファルトの照り返しも相まって⼤変つらい⾏程となった。暑さが過ぎると、何をするにも息が切れ、睡魔が襲ってくるのだ。道中の休憩や興法寺での法要の間、私は、始終、うとうとと眠ってしまっていた。後⽇、熱中症の症状に呼吸困難や眠気などが含まれているのを知った。軽い熱中症になっていたのかもしれない。同⾏の⽅からご⼼配のお声がけをたくさんいただき、⼤変恐縮した。まことに有難いことであった。
2⽇⽬から登⼭道を歩くこととなった。前⽇の暑さから、鈴懸(上)を取って、⽩⾐と⼭袴での修⾏となった。村⼭道は、平安末期に開かれた富⼠⼭最古の登⼭道であり、村⼭修験の衰退とともに廃道となったのを、近年、篤志の⽅の御尽⼒により復活されたという。その⼀端を担い、今も村⼭道の整備を⾏っていただいている⼟屋四郎⽒も峯⼊修⾏のサポーターとしてご参加いただいている。私の地図(2017 年版、⼭と⾼原地図)では、村⼭道は点線で表⽰されている。点線は「登⼭コース(難路)」の意味である。体験記を書くに当たり、関東で有名な登⼭専⾨店(好⽇⼭荘)の HP に店舗スタッフによる投稿を⾒付けた。⽈く「・・・林道が錯綜したり踏み跡が消えたりとかなり道が分かりづらく道迷い注意。夜間の歩⾏は危険・・・(略)・・・天照教付近は林道が錯綜し、不明瞭な部分が多く何度かロストしました。この辺りは地図地形読み⼒が求められますねぇ。・・・(略)・・・結果としては村⼭道の 3 分の 2 は歩けましたが五合⽬にすら⾄れないという体たらく。計画の練度や情報集めの適当さ、体調・モチベーション管理など⾊々と⾒直すべき点も⽬⽴つ⼭⾏となりました。」とのこと。顧客へのアドバイス能⼒が強みの専⾨店のスタッフは、登⼭経験が豊富なことは当然のこと、富⼠修⾏は難⾏道と覚悟しておくべきである。さらに、途中、⾵⽔害の被害を受けて、いくつかルートが潰れているところがあったが、⻄川卯⼀⼤先達は、難なくこれを踏破された。「村⼭道の難しさが⼀般の登⼭者に受け⼊れられにくいのでしょう。」と⻄川⼤先達はおっしゃっていた。この⽇、私は前⽇の疲労から体調を⼼配していたが、⻄川⼤先達の節妙なペース配分の御蔭で疲れは無かった。富⼠⼭専⾨の登⼭ガイドを務める⻄川⼤先達が導き、村⼭道の整備を続ける⼟屋⽒がサポートいただけるのだから、これ以上⼼強いことはない。村⼭道の途中、何度か、富⼠スバルラインを横切る。時折、⾞やバイクが通る。⼭伏姿の我々を珍しそうに⾒ているのが分る。そんな時は気合を⼊れて法螺⾙を吹く。カラ元気でも元気になるものだ。私は今年、59 歳、新客として参加した年から修⾏参加を重ねるごとに体⼒的には厳しくなっていく。しかし、⾏中の⾃⼰と対話しながら、⼀歩⼀歩無理をしない歩き⽅をするので、時間や距離は少しずつ短く感じるようになっていく。昨⽇、歩けないかもしれないと感じた不安が少しずつ薄らいでいった。しかし、神仏は「それでは修⾏にならん。」と思われたのだろうか、私にひとつの「苦難」をお授けになった。2 ⽇⽬のゴールとなる6合⽬の宝永⼭荘迄の途中、額に何カ所か、⾍(ブヨだろうか)に刺されてしまった。私は体質的にアレルギー反応がひどく、他の⼈に⽐べて腫れがひどくなりやすい。明けて3⽇以降、瞼の腫れがひどくなり目が開かなくなったのだ。
3⽇⽬は、⼭頂を超えて⼭梨県側の6合⽬までの⾏程となる。午前2時半の起床、暗いうちからの修⾏開始である。市街地の街灯が良く⾒えた。既に森林限界を越えており⽇光を遮るものがない登⼭道をひたすら歩くことになる。通常は檜笠で⽇を避けるが、富⼠⼭は⾵が強く、笠が壊れてしまう。富⼠⼭は峻険な岩場などはないが、⾃然が⼤きすぎて厳しいのだ。私は笠を付けずに、頭にサラシを巻いて⽇を避けることにした。⾝体が慣れてきたのか、初⽇のようなつらさは無かったが、新客修⾏の時のようにスイスイ登れるわけもなく、強⾵の中、法螺⾙も鳴らない。以前ほど早く歩けなくなったが、⼭頂までの道のりは以前よりも短く感じた。⼭頂では、まず富⼠⼭本宮浅間⼤社奥宮で勤⾏し、その後、⽯仏の前で先祖供養等の法要を⾏う。廃仏毀釈の影響を受けてどの仏様も頭が落とされている。⼈は⼀時の気の迷いで残酷な仕打ちをするものだと思った。⼭頂の⾵は強く、冷たい。強い⾵は、砂や⼩⽯を巻き上げ、我々に叩きつける。⾵が吹くごとに痛い。ゴーグルをつけている⽅もいた。
法要の後、剣ヶ峰まで歩いた。富⼠⼭の最⾼の地点で気象観測所のある岩稜地帯である。私は、そこに⽴ち、天を仰ぎ⾒る姿を背中側から写真を撮っていただいた。後⽇、私は、その写真を「海⽔で⾝体を清めた後、歩いて、歩いて・・・登りました。わずか数⽇で⾏けるけど、なかなか⾏けない⽇本⼀の⾼所、富⼠⼭剣ヶ峰にて」というコメントとともにフェイスブックに投稿した。このコメントは、修⾏から帰る途中、⾞窓から⾒える富⼠⼭の巨⼤さに「よくあれを歩いたものだ」と感慨深い思いから頭に浮かんだのである。フェイスブックの投稿に、かつての⼤峯修⾏同⾏の僧侶の⽅から「神々しい」とか「凛々しい」とか、数多くのメッセージをいただいた。⾦峯⼭寺の⽥中利典⻑臈から「かっこいいです」というメッセージが寄せられたときは、さすがに少し恥ずかしくなった。背中から取っていただいたのは瞼の腫れが酷くなり、正⾯の写真を避けただけなのだ。
剣ヶ峰から降りた後は、久須志神社前で勤⾏、宮司さんが納めた碑伝を御幣の前に安置していただいた。⼼がつながったようでうれしかった。久須志神社側には、⼭⼩屋が並んでおり、休憩中の登⼭客、特に外国⼈登⼭客やトレラン愛好家が多かった。彼らは鈴懸姿の我々を⾃然体に受け⼊れてくれた。写真を撮って良いかと寄ってくる⼈はおらず、そっと⾒守ってくれていた。それがうれしかった。さて、下⼭は、カンカン照りと強⾵の中、⾵に煽られる砂を浴びながら、⻑い、⻑い⽕⼭灰の砂利道をひたすら下っていく。私は、⾍に刺され腫れで開かなくなった⽬を半眼に、歩⾏禅のように淡々と歩いて降りた。歩いても、歩いても、まだ先が⻑い。登りと違ったつらさがあった。
その後、6合⽬の「姥ケ懐」(茅葺の⼩屋の前)で勤⾏。⼩屋には鍵が架けられ、中の状態は分からないが、洞窟状になっており、⽇蓮上⼈が 100 ⽇間の修⾏を⾏ったと伝えられている。「甲斐国志」によれば、⽇蓮上⼈は、富⼠浅間⼤菩薩を天照⼤神、⼋幡神と同格の法華経守護神として重んじ、蒙古国の使者の来朝に国が騒然としている折、法華経全巻を書写し、富⼠⼭に埋経し、国家安泰を祈念したという。姥ケ懐は⽇蓮宗の聖地なのだ。勤⾏後、星観荘に向かう。道のりは僅かである。
⼭梨県の⼭開きは7⽉1⽇である。閉⼭期の修⾏で訪れたときと違って、星観荘は外国⼈登⼭客で溢れていた。富⼠⼭は信仰の世界⽂化遺産であるが、彼らは宗教⾏為としての富⼠登⼭を知ってのことだろうか、⼭頂にいた外国⼈同様、星観荘に泊まる⼈たちも我々を⾃然に受け⼊れてくれた。
最終⽇、星観荘から、富⼠スバルライン5合⽬⼩御岳を経由して森林の緩やかな傾斜の登⼭道をひたすら歩く。⻘⽊ヶ原樹海の遊歩道に通過し、富岳⾵⽳を巡る修⾏となる。⻘⽊ヶ原樹海と聞くと「⼀度⾜を踏みいれたら、⼆度と出られない」などという都市伝説があるなど、マイナスのイメージが先⾏しているが、遊歩道が整備され緑豊かなエリアだ。法螺⾙の⾳も⽊々の幹にこだまして⼼地よい。富岳⾵⽳の中は冷気に包まれた別世界、7⽇(前⽇)の静岡は40.0度を記録する中、未だ氷が残っていた。このあたりから、修⾏ももう、終わりかと、少し淋しい思いが頭によぎってくる。この後、冨嶽両界峯⼊修⾏の秘密の修⾏が待っているが、それは実際に体験していただきたいと思う。精進湖とその脇にある⻯神の祠で勤⾏し満⾏となった。宮元會⻑から遂⾏証と碑伝が渡される。碑伝の裏には参加者全員の名前が書かれている。全員の名前の書かれた碑伝が各拝所に置かれていたのだ。これを書くのはさぞ⾻の折れたことであろう。霊峰富⼠に⾃分の名前が⾜跡として残ることの有難さと相まって⼼が熱くなる。最後に、体験記をお読みいただいて申し訳ないが、修⾏の結果得られる「境地」や「思い」は説明できない。体験記を読んで理解しようと思ってもそれはできず、ご参加いただき、直接経験いただくしかない。まさに「果分不可説」なのだ。
冨嶽両界峯⼊修⾏の初めは、聖護院の⼤峰駈修⾏が台⾵等の事情で中⽌となり、宮元隆誠會⻑、内⽥義基副会⻑が、富⼠⼭登拝を始めたのがきっかけと聞く。当初は偶然の様に開始された修⾏であったが、ご発⼼の後は、新型コロナウイルス蔓延時も⽋かさずに登拝を続けて来られ、今回で14度⽬となった。私は7回⽬から参加させていただいたが、参加の都度、宮元會⻑の胆⼒、よく考えられた⾏程に驚き、サポート体制の充実と⼼遣いに感謝している。令和6年度から7⽉の開催となったが、これも⼤和修験會の発展に不可⽋な⼤きな決断であったに違いない。修⾏として⾏うことは同じでも時期が変わり、⾃然が変わり、⼭が変わり、様々な修⾏者を包摂するがゆえに宗派の壁を超え新たな発展の局⾯に⼊ったのだ。今後、⼤和修験會の理念と冨嶽両界峯⼊修⾏が連綿と継続・継承されていくことを切に願う。