両子寺 寺田 豪淳
以前、「修験道の⼭岳修⾏はまるで洗濯機に⾐服を投げ込んで⾃動的にきれいになって出てくるようなものだ」と写真家のエバレット・ブラウンとの対談で聞いた。
本年は 2 回⽬の参加であったが、前回は秋の 10 ⽉で今回は夏の 7 ⽉であった。この時期は地域の仕事やお盆の⽤などで多忙の中の参加であった。帰ったらあれもこれもやらなきゃならないという思考は⼀旦修⾏が始まると考える余裕さえ与えてくれなかった。先ずは初⽇の鈴川海岸での⽔垢離の後に辿った市内の酷暑。静岡市は先⽇ 39 度で全国⼀の気温というニュースを聞いたばかりだった。梅⾬明けも未だ発表されておらず、夏の暑さに慣れていない⾝体に厳しい⾼温と⽇差しとアスファルトの照り返しだった。富⼠⼭頂に登り、⼭梨県側に降りていくいわゆるブルドーザー道を下るときの⽕⼭灰の⼟煙や⼩⽯にまかれながら、⾃分の汗とドロドロになって⾼⼭病の偏頭痛のなか⾜を滑らせないようにと思いながらも何度も尻もちをついて歩いた⻑いつづら折りの道。この暑さときつさはこれまでの⾏のなかでも特に印象に残った。
きついこともあれば、素晴らしいこともあった。朝 2 時の起床、3 時出⽴の暗い道を歩いているなかで⽇が登り少しずつ周りが⾒えるようになり、⿃が囀り⾍が活動を始める。特に九州とは違った植⽣の森の⽊々や溶岩の上に活着した苔などは美しく光を放っているようだった。その中の道を歩く時は⾜のきつさなど全く気にならなかった。⽐叡⼭の回峯⾏者が歩く時はいつも同じ⽯を踏んで歩くようになることや、⽊々や花々の移り変わりが美しくそれが修⾏中の楽しみの⼀つ、と⾔っていたことを思い出した。
また、前回は荒天の⾬と霧、霙でほとんど景⾊が⾒えなかった、今回は⼭頂から⾃分たちが歩いてきた道のりを最⾼峰から眺めることができ、達成感もひとしおであった。⽇の出や⼣焼けには富⼠⼭がそのままの形で雲や⼤地に⼤きな影を作ることを初めて知った。早朝の少しずつ⾊を変える空や雲の繊細な美しさは他の地では⾒たことないもので⼼に焼きついている。
道中の駈け念仏では「六根清浄」と唱えるが、眼、⿐、⽿、⾆、⾝、意が清浄になるとはどういうことだろうか、これはそれぞれの感覚器官をフルに使うことではないかと思う。⼭では⾃分の安全の為、⾃然とそうならざるを得ない。普段歩く時には⼟の硬さや、⽯の感じ、湿り気などに気を付けることもないが、⼭の中では怪我をしないように⾃然とそうなってしまうのである。これはティック・ナット・ハンの提唱するマインドフルネスと同じであると思う。いまここに他⼈との⽐較を越えた充⾜感や感謝がある。3 ⽇間⾵呂にも⼊れず、汗にまみれ⽕⼭灰が纏わりつき汚れた体であるが不思議と感性は広がり鋭くなり、⼼はすっきりとしている。今の地⾯を踏みしめ次の⼀歩を踏み出し前に進むことのみに専念し、不思議と雑念の⼊る隙間のない(余裕がないともいえるが…)読経をする。
外⾯は汚れて精進湖に到着したが、内⾯は道中撹拌され巨⼤な富⼠の懐で⽂字通りʻ洗濯されたʼような修⾏体験だった。すっきりとした晴れ晴れしい⼼持ちで⼿を合わせることができた。
今回も宮元会⻑をはじめ⻄川⼤先達、奥様、サポートの皆様のおかげで魔事なく⾏に集中することができました。その深いお⼼遣いに深謝申し上げます。合掌